ヴィサンブールの戦いとは? わかりやすく解説

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ヴィサンブールの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)

普仏戦争」の記事における「ヴィサンブールの戦い」の解説

ヴィサンブール ヴィサンブール(独:ヴァイセンブルク詳細は「ヴィサンブールの戦い(英語版)」を参照 捕虜にしたプロイセン兵や地元警察署長からの聴取により、フリードリヒ王太子第3軍ザールブリュッケンから僅か48km南方ヴィサンブール(独:ヴァイセンブルク付近にいる事が分かり、ルブーフ将軍ナポレオン3世防御的位置まで退却する事を決めた。フロサール将軍ザールブリュッケン進出していたライン軍の一部独断でスピシャラン(英語版)とフォルバックまで急遽退却させた。 この時点ヴィサンブール最も近い位置にいたマクマオン元帥(第1軍団)は、隷下の4個師団を約32kmに渡って散開させてプロイセン軍侵攻を待つ形になった。これは補給欠如よるもので、各師団と本来それらの師団支援する筈である軍の補給部隊とが一緒になって基本的な物資探して廻る有様だった。 更に状況悪化させたのは第1軍団第1師団デュクロ将軍(Auguste-Alexandre Ducrot)の言動であったデュクロ8月1日マクマオン軍団第2師団長アベル・ドゥエー将軍(Abel Douay)に対して「私が得た情報では敵は前哨付近に大した兵力置いておらず、攻勢に出る意思はないと思われる」と話したその2日後、デュクロマクマオンに「敵の前哨一つすら発見できていない。(中略ババリア人脅し単なるハッタリ思える」と述べたデュクロドイツ軍からの攻撃は無いと見ていたが、マクマオンはなおも他の各師団への警告努めた。しかしその努力は実らなかった。 普仏戦争における最初の戦闘1870年8月4日起きた第1軍団ドゥエー将軍率い第2師団随伴する騎兵部隊は、支援のない状態で国境監視配置についていたが、ドイツ第3軍から圧倒的ながら統制欠いた攻撃受けたその日通じて1個バイエルン軍団と2個プロイセン軍団からの部隊戦闘参加しプロイセン軍砲兵支援加わってヴィサンブール防御陣地穴を開け始めたシャスポー銃正確な射程射撃おかげでドゥエー当初非常に頑強に陣地保持したが、そのまま支え切るには部隊薄く延び過ぎていた。ドゥエー昼前師団ミトラィユーズ隊の弾倉近く爆発して戦死したプロイセン兵は市を包囲しつつあり、フランス軍退路脅かされた。 ヴィサンブール市内での戦闘極めて激化し建物一軒ずつ争う消耗戦となったプロイセン歩兵間断ない攻撃にもかかわらずフランス第2師団位置変えなかった。ヴィサンブール市民最終的にドイツ降伏した降伏しなかったフランス兵死傷者1,000人と捕虜1,000人を残し残り弾薬全て遺棄して西へ退却したプロイセン兵による最後の攻撃で更に約1,000人の損害出たドイツ騎兵その後フランス兵追撃失敗し接触失った攻撃側優勢な初期兵力広く展開して包囲成功させるかに見えたが、フランス軍シャスポー銃威力歩兵攻撃撃退し続けフランス歩兵プロイセン砲兵猛射浴びるまで持ち堪えた

※この「ヴィサンブールの戦い」の解説は、「普仏戦争」の解説の一部です。
「ヴィサンブールの戦い」を含む「普仏戦争」の記事については、「普仏戦争」の概要を参照ください。

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