ヴィサンブールの戦い
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ヴィサンブール ヴィサンブール(独:ヴァイセンブルク) 詳細は「ヴィサンブールの戦い(英語版)」を参照 捕虜にしたプロイセン兵や地元警察署長からの聴取により、フリードリヒ王太子の第3軍がザールブリュッケンから僅か48km南方のヴィサンブール(独:ヴァイセンブルク)付近にいる事が分かり、ルブーフ将軍とナポレオン3世は防御的な位置まで退却する事を決めた。フロサール将軍はザールブリュッケンに進出していたライン軍の一部を独断でスピシャラン(英語版)とフォルバックまで急遽退却させた。 この時点でヴィサンブールに最も近い位置にいたマクマオン元帥(第1軍団)は、隷下の4個師団を約32kmに渡って散開させてプロイセン軍の侵攻を待つ形になった。これは補給の欠如によるもので、各師団と本来それらの師団を支援する筈である軍の補給部隊とが一緒になって基本的な物資を探して廻る有様だった。 更に状況を悪化させたのは第1軍団の第1師団長デュクロ将軍(Auguste-Alexandre Ducrot)の言動であった。デュクロは8月1日、マクマオン軍団の第2師団長アベル・ドゥエー将軍(Abel Douay)に対して「私が得た情報では敵は前哨付近に大した兵力を置いておらず、攻勢に出る意思はないと思われる」と話した。その2日後、デュクロはマクマオンに「敵の前哨一つすら発見できていない。(中略)ババリア人の脅しは単なるハッタリと思える」と述べた。デュクロはドイツ軍からの攻撃は無いと見ていたが、マクマオンはなおも他の各師団への警告に努めた。しかしその努力は実らなかった。 普仏戦争における最初の戦闘は1870年8月4日に起きた。第1軍団のドゥエー将軍率いる第2師団と随伴する騎兵部隊は、支援のない状態で国境監視の配置についていたが、ドイツ第3軍から圧倒的ながら統制を欠いた攻撃を受けた。その日を通じて1個バイエルン軍団と2個プロイセン軍団からの部隊が戦闘に参加し、プロイセン軍の砲兵支援も加わってヴィサンブールの防御陣地に穴を開け始めた。 シャスポー銃の正確な長射程の射撃のおかげで、ドゥエーは当初非常に頑強に陣地を保持したが、そのまま支え切るには部隊が薄く延び過ぎていた。ドゥエーは昼前に師団ミトラィユーズ隊の弾倉が近くで爆発して戦死した。プロイセン兵は市を包囲しつつあり、フランス軍は退路を脅かされた。 ヴィサンブール市内での戦闘は極めて激化し、建物を一軒ずつ争う消耗戦となった。プロイセン歩兵の間断ない攻撃にもかかわらず、フランス第2師団は位置を変えなかった。ヴィサンブールの市民は最終的にドイツに降伏した。降伏しなかったフランス兵は死傷者1,000人と捕虜1,000人を残し、残りの弾薬全てを遺棄して西へ退却した。プロイセン兵による最後の攻撃で更に約1,000人の損害が出た。ドイツ騎兵はその後フランス兵の追撃に失敗し接触を失った。攻撃側は優勢な初期兵力を広く展開して包囲を成功させるかに見えたが、フランス軍はシャスポー銃の威力で歩兵攻撃を撃退し続け、フランス歩兵がプロイセン砲兵の猛射を浴びるまで持ち堪えた。
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