フシュヴィレール=ワシュの戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > フシュヴィレール=ワシュの戦いの意味・解説 

フシュヴィレール=ワシュの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)

普仏戦争」の記事における「フシュヴィレール=ワシュの戦い」の解説

詳細は「フシュヴィレール=ワシュの戦い(英語版)」を参照 マクマオン元帥フランス第1軍と、フリードリヒ王太子ドイツ第3軍は、ヴィサンブールの戦いから2日後1870年8月6日に、ヴィサンブールから16km未満の距離になるフシュヴィレール(フランス語版)(Frœschwiller)町のヴルトヴェルト付近で再び激突した王太子第3軍は、参謀フォン・ブルーメンタール将軍迅速な対応により、増援受けて兵力14万人上っていた。フランス軍増援受けたが、フランス側動員遅くフランス軍は僅か35千人止まっていた。 フランス側数的に圧倒的に不利であったのだが、フシュヴィレールのすぐ外側防御配置に就いていた。午後までに、両軍ともに損害は約1万人を数えフランス軍抵抗続けるのが難しくなった。更にフランス軍にとっては不利なことに、フランス軍防衛中央のの上にあるフシュヴィレールをドイツ軍奪取してしまった。勝利望み失い皆殺し直面しフランス軍戦線離脱し西に向かって撤退しヴォージュ山脈反対側にいるフランス軍部隊合流することを目指した。ドイツ第3軍退却中のフランス軍追撃しなかった。ドイツ第3軍アルザス残り付近フランス軍警備部隊攻撃して撃破しつつ、ゆっくりと南へ進んだ。 フシュヴィレール=ワシュの戦いは普仏戦争最初大規模な戦闘であり、両軍合わせて10万人を超える兵力激突したまた、この戦い様々なドイツ諸邦プロイセンバーデンバイエルンザクセンなど)が共同戦った戦い中でも最初の頃のものの一つでもある。これらの事実により、ヴルト戦場を「ドイツ揺籃」と呼ぶ歴史家もいる。しかしながらドイツ側もこの戦いにおいて無傷というわけではなかった。たとえば、プロイセン軍戦死傷者10,500であった。しかし、マクマオン状況は更に悲惨であったフランス軍損害19,200人が戦死戦傷捕虜となったのである皇帝不在パリでは、相次ぐ敗戦により、8月9日エミール・オリヴィエ内閣倒れ好戦的なシャルル・クーザン=モントバン(英語版)が首相となったナポレオン3世当初モーゼル川西部まで撤退検討していたが、人気失墜恐れて決断できなかった。8月13日新内閣は、モーゼル川東部メス(独:メッツ陥落阻止すべく、全軍同地集結させようとした。そして、優柔不断なナポレオン3世は、指揮官地位をバゼーヌ元帥委ねた

※この「フシュヴィレール=ワシュの戦い」の解説は、「普仏戦争」の解説の一部です。
「フシュヴィレール=ワシュの戦い」を含む「普仏戦争」の記事については、「普仏戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「フシュヴィレール=ワシュの戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フシュヴィレール=ワシュの戦い」の関連用語

フシュヴィレール=ワシュの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フシュヴィレール=ワシュの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの普仏戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS