フシュヴィレール=ワシュの戦い
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「普仏戦争」の記事における「フシュヴィレール=ワシュの戦い」の解説
詳細は「フシュヴィレール=ワシュの戦い(英語版)」を参照 マクマオン元帥のフランス第1軍と、フリードリヒ王太子のドイツ第3軍は、ヴィサンブールの戦いから2日後の1870年8月6日に、ヴィサンブールから16km未満の距離になるフシュヴィレール(フランス語版)(Frœschwiller)町のヴルト(ヴェルト)付近で再び激突した。王太子の第3軍は、参謀フォン・ブルーメンタール将軍の迅速な対応により、増援を受けて兵力は14万人に上っていた。フランス軍も増援を受けたが、フランス側の動員は遅く、フランス軍は僅か3万5千人に止まっていた。 フランス側は数的に圧倒的に不利であったのだが、フシュヴィレールのすぐ外側で防御配置に就いていた。午後までに、両軍ともに損害は約1万人を数え、フランス軍は抵抗を続けるのが難しくなった。更にフランス軍にとっては不利なことに、フランス軍防衛線中央の丘の上にあるフシュヴィレールをドイツ軍が奪取してしまった。勝利の望みを失い、皆殺しに直面し、フランス軍は戦線を離脱し西に向かって撤退し、ヴォージュ山脈の反対側にいるフランス軍部隊に合流することを目指した。ドイツ第3軍は退却中のフランス軍を追撃しなかった。ドイツ第3軍はアルザスに残り、付近のフランス軍警備部隊を攻撃して撃破しつつ、ゆっくりと南へ進んだ。 フシュヴィレール=ワシュの戦いは普仏戦争で最初の大規模な戦闘であり、両軍合わせて10万人を超える兵力が激突した。また、この戦いは様々なドイツ諸邦(プロイセン、バーデン、バイエルン、ザクセンなど)が共同で戦った戦いの中でも最初の頃のものの一つでもある。これらの事実により、ヴルトの戦場を「ドイツの揺籃」と呼ぶ歴史家もいる。しかしながら、ドイツ側もこの戦いにおいて無傷というわけではなかった。たとえば、プロイセン軍の戦死傷者は10,500人であった。しかし、マクマオンの状況は更に悲惨であった。フランス軍の損害は19,200人が戦死・戦傷・捕虜となったのである。 皇帝不在のパリでは、相次ぐ敗戦により、8月9日、エミール・オリヴィエ内閣が倒れ、好戦的なシャルル・クーザン=モントバン(英語版)が首相となった。ナポレオン3世は当初、モーゼル川西部まで撤退を検討していたが、人気の失墜を恐れて決断できなかった。8月13日、新内閣は、モーゼル川東部のメス(独:メッツ)陥落を阻止すべく、全軍を同地に集結させようとした。そして、優柔不断なナポレオン3世は、指揮官の地位をバゼーヌ元帥に委ねた。
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