ヴァーツラフ4世とジクムント
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「ルクセンブルク家によるボヘミア統治」の記事における「ヴァーツラフ4世とジクムント」の解説
「フス戦争」も参照 1378年にカレル1世が死去すると、息子ヴェンツェル(ヴァーツラフ4世)がボヘミア王位を継承し、ローマ王にも選出されたが、ヴァーツラフ4世は父ほど優れた人物ではなかった。後に「怠惰王」もしくはその酒癖のひどさから「酔っ払い王」と酷評されたように、ヴァーツラフ4世のドイツ支配は稚拙極まりなかった。そのため、1400年に王位を追われ、プファルツ選帝侯ループレヒトがローマ王位についた。ボヘミア統治も失政続きで、貴族や聖職者との抗争を招いた。 統治者としては失格だったヴァーツラフ4世だったが、ボヘミアの民衆からの評判は良かった。祖父や父と違ってプラハで育ったヴァーツラフ4世は、父の事業を受け継ぎ、プラハの文化振興に力を注いだからである。 ヴァーツラフ4世の異母妹アンナは1382年にイングランド王リチャード2世と結婚したが、この結婚はチェコの歴史に重大な影響を与えることになった。当時のイングランドでは、教会の堕落を非難するウィクリフの教えが盛んであり、それがボヘミアにも浸透したからである。プラハの司教は大司教に昇格したことで権力が増したが、これは同時に教会の腐敗・堕落にもつながっていた。 ウィクリフの影響を最も強く受けたのが、プラハ大学の総長ヤン・フスであった。フスは教会の改革を唱え、また聖書のチェコ語訳や説教を行ったので、その教えは急速に民衆の間に広まり、教団を形成していった。これをフス派と呼ぶ。ヴァーツラフ4世も当初はフスを支援していた。しかし、その教えが過激なために見放し、フスは破門される。 ヴァーツラフ4世の異母弟(アンナの同母弟)ジギスムントは、祖父と同様にして女王マーリアとの結婚によりハンガリー王位につき、またループレヒトの死後にローマ王に選出されていた(皇帝戴冠は1433年)。そのジギスムントの提唱により、1414年にコンスタンツ公会議が開催された。その目的は教会大分裂を終息させることにあったが、同時にフス派の扱いについても議論の対象となった。結果、フスは異端とされ、翌1415年にフスは火刑に処せられた。フスの処刑にプラハの民衆は激怒し、1419年にプラハ窓外投擲事件が起こる。その報を聞いたヴァーツラフ4世はショックで急死した。 ヴァーツラフ4世に嗣子がなかったため、ボヘミア王位はジギスムント(ジクムント)に渡ったが、フス派、特に急進派(ターボル派)はこれを拒絶し、徹底抗戦の構えを見せた。これに対してジクムントも十字軍を派遣し、フス戦争と呼ばれる内乱となった。ジクムントの繰り出す十字軍は、急進派の首領ヤン・ジシュカの新戦術の前にことごとく敗退し、逆に急進派の侵略を許してしまう。戦争は16年間続いたが、フス派の内部抗争の結果、ジクムントは最終的に勝利を収め、1436年に名実とともにボヘミア王となった。しかし、翌年に男子を残すことなく死去し、ルクセンブルク家によるボヘミア統治は終焉を迎えた。ルクセンブルク家が去った後のボヘミアに残されたのは、民族意識の芽生え、すなわちチェコ人意識の覚醒であった。これが200年後の三十年戦争につながることになる。
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