ロックンロールの殿堂財団
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「ロックの殿堂」の記事における「ロックンロールの殿堂財団」の解説
ロックンロールの殿堂財団は1983年にアーメット・アーティガンによって創設され、彼は『ローリング・ストーン』編集者兼発行人のヤン・S・ウェナーと数名のレコード業界幹部(セイモア・スタイン、ボブ・クラスノウ、ノリーン・ウッズ)および弁護士数名からなるチームを編成した。1986年にこの財団がアーティストの殿堂入りに着手するが、その殿堂にはまだ拠点が無かった。調査委員会は、フィラデルフィア、メンフィス、デトロイト、シンシナティ、ニューヨーク、およびクリーブランドを含む幾つかの都市を検討した。 クリーブランドは同博物館の誘致活動を展開して、市民団体のリーダー達が建設基金として公金6500万ドルを約束したり、地元局DJのアラン・フリードが「ロックンロール」を造語してこの新ジャンルを大幅に推進させたことを挙げたり、クリーブランドが最初の大きなロックコンサート (Moondog Coronation Ball) の場所になったことを引き合いに出したりもした。なお、フリードは1986年に殿堂入りした最初の殿堂メンバーである。さらにクリーブランドは、最初の米国ツアーをこの都市で始めたデヴィッド・ボウイや、1970年代と1980年代にアメリカで幾つかの主要曲を大ヒットさせる上で重要な役割を果たしたラジオ局WMMSを引き合いに出した。 クリーブランドの財界首脳やメディア企業がオハイオ州住民60万人による署名の支持を掲げる嘆願書をまとめ上げ、1986年に『USA Today』誌でどこに殿堂を設置すべきかを尋ねた集計では、クリーブランドが1位になった。1986年5月5日、殿堂財団はロックンロールの殿堂博物館の恒久的な本拠地としてクリーブランドを選んだ。なお、クリーブランドは市が最高の融資提案を出したために運営場所として選択された可能性がある。現地プレーン・ディーラー紙の音楽評論家マイケル・ノーマンは「それは6500万ドルだった。[中略]クリーブランドはこの地にそれを望んでお金を出した」と述べている[要出典]。 殿堂博物館の建設場所に関する初期の議論で、財団理事会はクリーブランドの繁華街でカヤホガ川沿岸を想定していた。最終的に選ばれた場所は、エリー湖を臨む東9番通り(East Ninth Street)沿い、クリーブランド・スタジアムの東となった。資金調達にズレが生じた計画段階のある時、当時の空きビル(May Company Building)にロックンロールの殿堂を置く提案もあったが、最終的に建築家I・M・ペイに新しい建物の設計を依頼することに決まった。最初のCEOであるラリー・R・トンプソン博士がこの設計でI・M・ペイを手助けした。ペイが、ガラスのピラミッドとそこから突き出た塔のアイデアを思い付いた。博物館の塔はもともと高さ200フィート(61m)になる予定であったが、バークレイク・フロント空港に近いため高さを49mに下げなければならなくなった。建物の基礎は約14,000m2である。
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