レイカーズvs76ers再び
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 00:26 UTC 版)
「1981-1982シーズンのNBA」の記事における「レイカーズvs76ers再び」の解説
ロサンゼルス・レイカーズはマジック・ジョンソンというスーパースターを獲得したその年にいきなり優勝を手にし、前途洋洋の80年代をスタートしたかに見えたが、その内情は問題だらけだった。前季のレイカーズはマジックが故障で45試合を欠場、それでも54勝28敗の好成績を残すも、プレーオフに入るとマジックとノーム・ニクソンの確執が表面化し、1回戦でヒューストン・ロケッツの前に敗退。さらにシーズン前にジャマール・ウィルクスが愛娘を亡くすという悲劇に見舞われている。新シーズンに入ると今度はマジックとヘッドコーチのポール・ウェストヘッドとの間で衝突が起き、マジックはチームに対してトレード要求までした。チームはマジック残留を優先し、11試合を消化したところでウェスヘッドを解任。そして新ヘッドコーチとして迎えられたのが、パット・ライリーだった。 常に問題の中心に居たマジックは、ホームのグレート・ウェスタン・フォーラムでもブーイングを浴び、ロード戦ではさらに盛大なブーイングと罵声で迎えられた。さらに100万ドル契約で獲得したミッチ・カプチャックは膝の故障でシーズンの大半を欠場、続けて大黒柱のカリーム・アブドゥル=ジャバーも故障に見舞われるなど、数々の逆境が襲った。特にカプチャックとジャバーを欠くフロントコートの薄さは深刻だった。幸いにもジャバーはすぐに復帰したが、リバウンドなどでレイカーズが不利になる場面が度々見られた。 レイカーズを救ったのは意外な人物だった。ボブ・マカドゥーはバッファロー・ブレーブスを離れてからはどのチームにも上手く機能できず、ジャーニーマンと化してこのシーズンにレイカーズに辿り着いた。マカドゥーはレイカーズでようやく居場所を見つけ、特に重要な場面での得点などでチームに貢献した。またシーズン前には契約交渉でチームと険悪な関係になっていたカート・ランビスはカプチャックの離脱後、43試合に先発出場し、カプチャックの不在を補った。 パット・ライリーはポール・ウェストヘッドに誘われてレイカーズのアシスタント・コーチとなった身であり、ウェストヘッドの忠実な部下だった。ウェストヘッドの急な解任によって昇格しただけで、ライリーのヘッドコーチ就任は周囲も、そして本人も望んだことではなかった。ライリーは戸惑いながらもチームの指揮を採り始め、ポイントガードとしては並外れた長身で優れた視野とパスセンスを持つマジックの長所を活かすため、ランニングゲームによりオープンの選手を作り出すラン&ガン戦術を採り入れた。ライリーの戦術はすぐには成功せず、シーズン中盤はやや不安定な時期を過ごしたが、それでも57勝25敗の好成績を記録し、カンファレンストップの成績を収めた。 ライリーの戦術は徐々にチームに浸透し始め、シーズン終盤に上がり始めた調子はプレーオフに入るとピークに達した。レイカーズはフェニックス・サンズ、サンアントニオ・スパーズを8戦全勝で蹴散らし、圧倒的な強さでファイナルに勝ち進んだのである。 レイカーズがファイナル進出を決めていた頃、イースタン決勝ではボストン・セルティックスとフィラデルフィア・76ersが激戦を繰り広げていた。当時イースタン最大のライバル同士だった両チームのカンファレンス決勝での対決は、これで3年連続である。第7戦までもつれた末、最後はジュリアス・アービングを擁する76ersが120-106でセルティックスを降し、2年ぶりのファイナル進出を決めた。ボストン・ガーデンで行われた第7戦終了後、セルティックスのファンは「Beat L.A!」の大合唱で76ersを送り出した。76ersは2年前の雪辱を果たすべく、レイカーズが待つファイナルの大舞台に乗り込んだ。
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