ラール・マスジッド籠城事件~ムシャラフ退陣(2007年~2008年)
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「ワジリスタン紛争」の記事における「ラール・マスジッド籠城事件~ムシャラフ退陣(2007年~2008年)」の解説
2006年10月、バージャウル管区のマドラサ(イスラム神学校)が空爆され、過激派の訓練生80人が死亡した(バジョール空爆事件)。それに対する報復としてダルガイの陸軍新兵訓練所が爆破され兵士40人が死亡した(ダルガイ事件)。 2007年1月、首都イスラマバードにあるラール・マスジッド(赤いモスク)付属のマドラサの女学生がモスクの一部を取り壊されたことに対する抗議のため近所の児童図書館に立てこもった(ラール・マスジッド籠城事件)。女学生を取り締まるための女性警察官を十分に準備できなかった警察が手をこまねいているうちに、この抗議運動は長期化・過激化し、自警団が近隣のイスラム的ではない中国人の店舗を襲撃するに至った。中国から抗議を受けたムシャラフ大統領は7月3日に制圧作戦を命じたが、この事件にはモスクの最高責任者なども加担しており死者は102人に達した。ラールマスジッドのマドラサはパキスタンの大統領ムハンマド・ジア=ウル=ハクの後援のもとにソ連軍と戦うムジャーヒディーンを輩出した学校だった。ラールマスジッドの学生の多くは部族地域出身であり、ターリバーンの関係者らも含まれていたという。そのため、ラール・マスジッド事件後に、その報復と見られる治安部隊を狙った自爆テロが相次いだ。7月15日にはターリバーンは北ワジリスタン和平合意破棄を宣言し、戦闘が再開されることとなった。 第1次スワートの戦い(英語版)(10月25日 - 12月8日)が始まる。11月3日、ムシャラフ大統領は全土に非常事態宣言を発令し、憲法は停止された。12月15日に非常事態は解除されたが、ムシャラフ大統領の再選問題に絡む統制であるという声があふれ、反発は強まった。さらに12月27日にはパキスタン人民党党首、ベーナズィール・ブットーが暗殺され、反ムシャラフ勢力と政府側の衝突はより激しくなった。 12月、ターリバーンを支持するパキスタン人武装勢力を統合する目的で、パキスタン国内の13のターリバーン系組織が合体してパキスタン・ターリバーン運動が発足した。最高指導者はバイトゥッラー・マフスード。 2008年1月、アメリカ軍はアルカーイダの序列3位で報道官兼ゲリラ戦の専門家のアブー・ライス・アッ=リービーを無人攻撃機によって爆殺した。 2月7日、パキスタン・ターリバーン運動指導者のバイトゥッラー・マフスードによって和平が提案され、5月21日にパキスタン軍はスワート渓谷(英語版)(スワート地区(英語版))から徐々に撤退して捕虜を返還する代わりに、武装勢力は自爆テロを中止して訓練キャンプを閉鎖するという合意が行われた。しかしなおも衝突はやまず、和平は実現しなかった。 9月はじめ、政府支持の部族勢力はターリバーンと戦うことを宣言し、3万人の部隊を組織した。
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