ラール・マスジッド籠城事件~ムシャラフ退陣とは? わかりやすく解説

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ラール・マスジッド籠城事件~ムシャラフ退陣(2007年~2008年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 23:59 UTC 版)

ワジリスタン紛争」の記事における「ラール・マスジッド籠城事件~ムシャラフ退陣(2007年2008年)」の解説

2006年10月、バージャウル管区マドラサイスラム神学校)が空爆され、過激派訓練生80人が死亡した(バジョール空爆事件)。それに対す報復としてダルガイの陸軍新兵訓練所が爆破され兵士40人が死亡した(ダルガイ事件)。 2007年1月首都イスラマバードにあるラール・マスジッド(赤いモスク付属マドラサ女学生モスク一部取り壊されたことに対す抗議のため近所児童図書館に立てこもった(ラール・マスジッド籠城事件)。女学生取り締まるための女性警察官十分に準備できなかった警察が手をこまねいているうちに、この抗議運動長期化過激化し、自警団近隣イスラム的ではない中国人店舗襲撃する至った中国から抗議受けたムシャラフ大統領7月3日制圧作戦命じたが、この事件にはモスク最高責任者なども加担しており死者102人に達した。ラールマスジッドのマドラサパキスタンの大統領ムハンマド・ジア=ウル=ハク後援のもとにソ連軍と戦うムジャーヒディーン輩出した学校だった。ラールマスジッドの学生多く部族地域出身であり、ターリバーン関係者らも含まれていたという。そのため、ラール・マスジッド事件後に、その報復と見られる治安部隊狙った自爆テロ相次いだ7月15日にはターリバーンは北ワジリスタン和平合意破棄宣言し戦闘再開されることとなった第1次スワート戦い英語版)(10月25日 - 12月8日)が始まる。11月3日ムシャラフ大統領全土非常事態宣言発令し憲法停止された。12月15日非常事態解除されたが、ムシャラフ大統領再選問題に絡む統制であるという声があふれ、反発強まった。さらに12月27日にはパキスタン人民党党首ベーナズィール・ブットー暗殺され、反ムシャラフ勢力政府側の衝突はより激しくなった。 12月ターリバーン支持するパキスタン人武装勢力統合する目的で、パキスタン国内13ターリバーン組織合体してパキスタン・ターリバーン運動発足した最高指導者バイトゥッラー・マフスード2008年1月アメリカ軍アルカーイダ序列3位報道官ゲリラ戦専門家のアブー・ライス・アッ=リービーを無人攻撃機によって爆殺した。 2月7日パキスタン・ターリバーン運動指導者バイトゥッラー・マフスードによって和平提案され5月21日パキスタン軍スワート渓谷英語版)(スワート地区英語版))から徐々に撤退して捕虜返還する代わりに武装勢力自爆テロ中止して訓練キャンプ閉鎖するという合意が行われた。しかしなおも衝突はやまず、和平実現しなかった。 9月はじめ、政府支持部族勢力ターリバーンと戦うことを宣言し、3万人部隊組織した

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