モールス式電信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 03:46 UTC 版)
アメリカでサミュエル・モールスとアルフレッド・ヴェイルが電信を発展させた。モールスは1836年に独自に電信を開発し、低品質な導線でも長距離を伝送可能な設計とした。彼の助手のヴェイルは、アルファベットを表すモールス符号の考案に関与した。 1838年1月6日、ニュージャージー州モリスタウン近郊の鉄工所で最初の実験に成功し、2月8日にはフィラデルフィアのフランクリン協会(英語版)科学委員会の委員たちの前でデモンストレーションを披露した。 1843年、アメリカ議会はワシントンD.C.とボルチモア間の実験的電信線の敷設に3万ドルの予算を計上した。1844年5月1日までにワシントンD.C.からアナポリスまで開通。その日ボルチモアで開催されたホイッグ党の全国大会で、ヘンリー・クレイが大統領候補に選ばれた。このニュースは鉄道でアナポリスまで運ばれ、そこで待っていたヴェイルがワシントンD.C.にいるモールスに電信でそれを伝えた。1844年5月24日に全線が開通すると、モールスはワシントンD.C.の最高裁判所からボルチモアのボルチモア・アンド・オハイオ鉄道に向けて最初の公式の電報を送った。そのメッセージは What hath God wrought である。 モールスとヴェイルの電信システムはその後20年で素早く広まっていった。その電信機で使用している強力な電磁石はヴェイルが考案したものだが、モールスは彼の名を正しく出さなかった。モールスの当初の設計では継電器もヴェイルの考案した電磁石も使っておらず、わずか40フィート(約12メートル)しか届かなかった。 これは実用的な電信システムであり、オペレータ(通信士)が電鍵で電流をオン・オフさせ、それによって受信側の音響器(英語版)がヒトが聞き取れる音を発生し、その音をヒトが聴いて解釈し書き写した。モールスとヴェイルは当初モールス符号を紙とペンで書き記し、そのマーク列を見て解釈する方式を採用したが、間もなくオペレータたちは受信機の音を耳で聴いて直接文字列に変換することを習得した。この信号を読み取って自動的に文字列を印刷する装置は一般にテレプリンターと呼ばれる。初期の大西洋横断電信ケーブルでも、このモールスのシステムが採用された。 1947年、ペンシルベニア州エリザベスタウンにほど近い州道230号線にアメリカ初の商用電信線の記念銘板がある。それによると、1845年にランカスター-ハリスバーグ間を結ぶ商用電信線が敷設されたという。1846年1月8日に開通した際の最初のメッセージは "Why don't you write, you rascals?" だった。 1861年10月24日、初の大陸横断電信システムが開通した。北アメリカ大陸をまたいで、アメリカ東部のネットワークがカリフォルニアの小規模なネットワークと接続されたもので、オマハとカーソンシティをソルトレイクシティ経由で繋いだ。この線で最初に送られた電報は当時ユタ準州知事を務めていたブリガム・ヤングによるもので、ユタ準州はアメリカ合衆国から離脱しないと明言するものだった。その2日後、ポニー・エクスプレスが廃止された。 カーソンシティは、史上最も長い電報がそこから発信されたことでも名を残している。南北戦争中の1864年アメリカ合衆国大統領選挙でエイブラハム・リンカーンの再選を確実にするため、共和党はネバダ準州をネバダ州に昇格させることを急いだ。そこでアメリカ議会の承認が必要な文書を電信で送り、すぐに議会で可決しリンカーン大統領が署名する手筈を整えた。東海岸へ向かう鉄道はネバダから2,000マイル(3,200キロメートル)も離れており、駅馬車で郵送した場合は予定通りでも3週間以上かかってしまい、遅すぎたのである。文書が送信されたのは1864年10月31日のことで、投票日である1864年11月7日の8日前のことだった。実際の選挙ではネバダの票がなくともリンカーンが快勝できるだけの票が集まった。対立候補であるジョージ・マクレランはわずか3州を獲得しただけだった。
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