モントローズ侯の行軍
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「インヴァロッヒーの戦い (1645年)」の記事における「モントローズ侯の行軍」の解説
モントローズ侯爵ら長老派教会(長老制)を重視するスコットランド国民盟約(盟約派)は、宗教政策を巡り監督制を押し付けたチャールズ1世と戦い(主教戦争)、和睦した後はどうすべきか方針が二分された。チャールズ1世から監督制の撤回を取り付けた後は彼に忠誠を誓うモントローズ侯と、国王の干渉を排除しスコットランド支配を目論むアーガイル侯爵アーチボルド・キャンベルが対立したのである。後者は第一次イングランド内戦でチャールズ1世と戦うイングランド議会派と同盟を結び1643年に厳粛な同盟と契約を締結、リーヴェン伯アレクサンダー・レズリー率いる援軍をイングランドへ派遣、反対した前者はチャールズ1世の下へ向かい忠誠を誓い、盟約派を打倒すべくスコットランドへ戻り挙兵した。 1644年にモントローズ侯はアイルランド・マクドナルド氏族首長でアイルランド貴族のアントリム伯ランダル・マクドネル(英語版)と親戚のアラスデア・マッコーラ(英語版)と組んで平定作戦を開始した。1月にイングランド北部で徴兵し3月に王党派のハントリー侯爵ジョージ・ゴードン(英語版)がスコットランド北東のアバディーンを占領した出来事に呼応、4月に国境を越えてスコットランド南部の都市ダンフリーズに到着した。ところが盟約派は素早く鎮圧軍を派遣したため王党派の合流は阻止され、挙兵は尻すぼみに終わったが、イングランド国境のカーライルに退いたモントローズ侯は抵抗を続け、アイルランドから1100人の援軍を連れてスコットランドに上陸したアントリム伯とマッコーラに合流すべく、僅か3人だけで変装して再び国境を越えて隠密に北上した。 8月にスコットランド中部でテイ川流域の町ブレア・アソル(英語版)でアイルランド軍と合流したモントローズ侯は一族やハイランド地方から兵を集めたが数が少ない上装備も貧弱、指揮系統もバラバラという多数の不安要素を抱えていた。にも拘らずパースへ進軍したモントローズ侯は9月1日に盟約派のエルチョ卿デヴィッド・ウィームズ(英語版)に戦いを挑み、2対1という戦力差を覆して勝利(ティパミュアの戦い(英語版))、パースへ入城した。戦後王党派が加勢したことで増強された軍勢を率いたモントローズ侯は盟約派に奪回されたアバディーンを目指し更に北上、焦ったアーガイル侯ら盟約派は追跡隊を放ったが山や沼など自然地帯へ潜伏する王党派を捕らえられず、モントローズ侯の軍は追跡をかわしながらアバディーンの戦い(英語版)で再び盟約派の軍を破り、アバディーンを略奪して北へ引き上げた。 山中に姿をくらましたモントローズ侯は冬の山越えを敢行、スコットランド西部のアーガイル・アンド・ビュートに現れ略奪を行い、盟約派を動揺させた。特に本拠地を略奪されたアーガイル侯はモントローズ侯を討伐すべく出兵、イングランドから帰国したウィリアム・ベイリー(英語版)の部隊をパースへ進め東から王党派を圧迫、自らはアーガイル・アンド・ビュートから北にあるインヴァロッヒーを占領して袋の鼠にしようとした。だが1645年1月、モントローズ侯はアーガイル侯の部隊がインヴァロッヒーに集結する前にまたもや姿をくらまし、盟約派を出し抜いた彼はネス湖付近に到着、ハイランド地方の各氏族を味方につけた。それから南へ引き返し、インヴァロッヒーに留まるアーガイル侯との決戦に踏み切った。
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