モヘンジョダロ遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:51 UTC 版)
インダス文明の古代都市モヘンジョダロの遺跡は周囲約5平方キロの広大な遺跡であるが、現在発掘が進んでいるのは全体の約4分の1ほどの地域である。遺跡で見つかった白骨死体46体は、突然、死がやって来たような状態であった。その内の9体には高温にさらされた跡が残されていた。また『ラーマーヤナ』の記述にもとづき、戦争の年代と場所とを特定した研究者によると、炭素14の分析によって、戦争の発生期間を紀元前2030年から紀元前1930年の間と特定したものの、モヘンジョダロにおいては約400年程度の食い違いが見られるという。このずれの可能性としては放射能の影響が強く考えられるが、いまだはっきりしない。 古代核戦争の研究者ダヴェンポートは、発掘対象からはずれていて、現地民が「ガラスになった町」と呼んで近付かない場所を訪れたと報告している。 そこは、黒いガラス質の石が、周囲約800メートル四方を覆い尽くしているという場所で、これらの石片は、高熱で溶けた砂が再固化したものと判明しており、その正体はテクタイトであるとされる。この付近では、ほかにも溶けてくっついたレンガや、ねじ曲がったり気泡が混じるなどしてガラス化した壺の破片等の遺物も見つかっている。これらの遺物やガラス化現象については、大規模な火災や火山噴火等の諸条件が偶然重なって起きたまれな現象であるというのが、一般的な考古学者の見解であるが、モヘンジョダロ遺跡のあるインダス川流域において、それほどの大規模の火山活動の痕跡はいっさい確認されていない。 このように広範囲の砂が溶けてガラス化するという現象は、これまで自然界ではまったく見つかっておらず、同様の風景は今のところ地表で核実験の行われた場所(砂漠)でしか確認されていない。 また、壺が原形を保ちながら溶けかかった状態で固まるという現象は、超高温の熱線がきわめて短時間に照射された状況を想定しない限り考えにくい(高熱にさらされる時間が長ければ、完全に溶けて原形を失うし、逆に、温度が低ければ大きな変形は起きない。)。なお、広島市にある広島平和記念資料館には、これらの遺物同様なかば溶けかかりながらも原形を留めたガラス製の一升瓶や、表面のみが溶けた瓦などが展示されている。 ダヴェンポートは、モヘンジョダロで発見された遺物をローマ学科大学へ持ち込み、ブルーノ・デイ・サバティーロ教授(火山学)やアムレート・フラミーニ教授(岩石学研究所)らに分析を依頼した。その結果、問題の遺物は約1000度から1500度の高温で短時間に加熱された「らしい」という結果が出たと報告している。 上記の研究結果に対し、以下のような反論がなされている。 証拠とされる品物が、じつは「発見者」や「オカルティストたち」によって捏造された可能性である。発見者のダヴェンポートは、この「ガラスになった町」を「地元でタブーとされている場所」として、その正確な場所を明らかにせず、その存在を第三者が確認したわけではない。インダス文明を研究する考古学者の近藤英夫教授(東海大学)はNHKの取材で、このガラスになった町について「モヘンジョダロは何度も訪れたが、見たことも現地で話を聞いたこともない」とコメントしている。ダヴェンポートの発表当時とは違い、現代ではGoogle Earthなどでモヘンジョダロ周辺の衛星写真を簡単に閲覧できるが、約800メートル四方もの広さのある(とされる)「ガラスになった町」らしきものはいっさい確認できない。「ガラスになった町」が実在しないのであれば、そこから発見されたという遺物の信憑性も失われることになる。 現地で発見された遺体についても、モヘンジョダロはインダス文明期以降も、洪水や火災等が原因で興亡を繰り返していたことがわかっており、一時期は廃墟化していたことさえあった。そのため、放置された遺体が見つかっても別に不思議ではない(上記の伝承も、通常の大火が誇張されて伝わったものと考えても齟齬はない)。
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