ミケーネ文明と「暗黒時代」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)
「クレタ島の歴史」の記事における「ミケーネ文明と「暗黒時代」」の解説
「ミケーネ文明」、「暗黒時代 (古代ギリシア)」、および「前1200年のカタストロフ」も参照 ミノア文明の衰亡と入れ替わるようにミケーネ文化がクレタ島に普及して行く。青銅器時代のギリシア本土は人口の減少と文化的低迷に陥っていたが、前1650年頃になるとミケーネ(ミュケナイ)で豪華な副葬品を伴った竪穴墓が作られるようになる。これはミケーネ遺跡の名前から取って、一般的にミケーネ文明、あるいはミケーネ文化と呼ばれており、クレタ島のミノア文明から多大な影響を受けていた事がわかっている。ただしミケーネ文明の遺物には各種の武器が数多く含まれておりミノア文明のそれに比べて軍事的性格の濃厚なものが多い。この文明で発達した線文字Bは、字形などからミノア文明で発明された線文字Aから影響を受けていることが確実である。 この頃にフェストス、アヤ・トリアダ、ティリッソスの宮殿は相次いで火災にあい、最大の都市クノッソスの宮殿も後期ミノアIIIA期(LMIIIA)の初めに破壊されてしまう(大崩壊)。ミケーネ時代のクレタ島は、ギリシア本土に付属する辺境と化したが、崩壊したクノッソスにはその後も部分的に再定住が行われ居住が続いていたことがわかっており、またミノア文化からミケーネ文化への移り変わりも断絶ではなく連続的であったことが知られている。ミケーネ時代のクノッソスの宮殿遺構はギリシア本土のピュロスと並び、多数の線文字B粘土板文書が発見されている遺跡であり、クノッソスの王(ワナックス、wanax)は戦車(チャリオット)を400台以上所有していたことが収蔵品目録によってわかる。 ギリシア本土で繁栄したミケーネ文明は、前1200年頃に崩壊を迎える。ミケーネ文明の崩壊は当時西アジアから東地中海で発生していた大規模な社会変動の一環であり、各地の都市、国家が相次いで破壊・放棄され、前1200年のカタストロフとも呼ばれる。具体的に何が起こったのかは明白ではない。はっきりしていることは前1225年頃から前1190年頃にかけて、コリントス地方、ラコニア地方、メッセニア地方、ボイオティア地方など、ギリシア本土の多くの地域で激しい破壊の嵐が吹き荒れたことである。線文字Bの記録体系も失われ、ギリシアは非文字社会へと戻ってしまっている。かつてはドーリス人の侵入や、エジプトの記録に登場する海の民にその原因を求める説が有力であり、確かに後のクレタ島にはドーリス系の人々が居住していたが、考古学的調査はこれを裏付けてはいない。文字記録が失われ、考古学的痕跡も希薄になり情報が得られなくなることから、前1200年から前750年頃までの時代はギリシア史では伝統的に「暗黒時代」とも呼ばれている。近年では文化的な「断絶」よりミケーネ時代の文化との継続的要素が指摘されるなどし、この呼称は見直されつつあるが、それでもこの時代は学術的な分水嶺を為している。 クレタ島のクノッソスではこの時代には安定的な集落が構築されており、前1200年のカタストロフの時期からの文化的変容も連続的であったことが知られている。むしろクノッソスの状況が把握できなくなるのは前7世紀末から前6世紀にかけてのことであり、この時代にはクノッソス自体が一時滅亡した可能性もある。
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