ミケーネ文明の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 07:16 UTC 版)
「前1200年のカタストロフ」の記事における「ミケーネ文明の崩壊」の解説
紀元前13世紀、ミケーネ文明は繁栄していた。しかし、災厄の予兆を感じていたのかギリシャ本土の諸都市は城壁を整えており、アテナイやミケーネでは深い井戸が掘られ、まさに篭城戦に備えているようであった。また、コリントス地峡では長大な城壁が整えられ、ミケーネ文明の諸都市はある脅威に備えていたと考えられる。 ミケーネ文明の諸都市、ミケーネ、ピュロス、ティリンスは紀元前1230年ごろに破壊されており、この中では防衛のために戦ったと思われる兵士の白骨が発見された。この後、これらの諸都市は打ち捨てられており、ミケーネ人がいずれかに去ったことが考えられる。このことに対してペア・アーリンは陶器を調査した上でミケーネの人々はペロポネソス半島北部の山岳地帯、アカイアに逃げ込んだとしており、アルゴリス、南メッセリア、ラコニアを放棄してアカイア、エウボイア、ボイオティアに移動したとしている。 また、クレタ島にもミケーネ人らが侵入したと考えられており、ケファレニア島西岸、ロドス島、コス島、カリムノス島、キプロス島に移動している。これらミケーネ人の移動により、ミケーネ文明は崩壊した。 この民族移動にはさまざまな意見がある。ドーリア人らが移動する以前にインド・ヨーロッパ語族がギリシャに侵入していたとする説、次に侵入など存在しなかったとする説、そして海の民の侵入という説である。 そして、ミケーネ文明の崩壊についても諸説存在する。文化的な衰退が始まったためにミケーネ文化が「バルバロイ」によって征服されたとする説は19世紀後半、文化的退廃理論が発達した時代では人気があった。また、「海の民」の襲撃によって東地中海諸国が荒らされたさいにミケーネもそれに巻き込まれ滅亡したとする説も19世紀には主流であった。 これはインド・ヨーロッパ語族であるイリュリア人がバルカン半島に侵入したために先住民がアナトリア、ギリシャへ追いやられた。そしてさらにフリュギア人らがヒッタイトを滅ぼした事で、このあおりを受けてアナトリアから追い出された人々が「海の民」であり、この海の民はキプロス、シリア、パレスチナを襲いさらに南下したがエジプトで撃退されたとする。この説はガストン・マスペロによって主張されたものであるが、都合の良い理論であり現在では主流ではなく、さらに宮殿こそ打ち捨てられているが、都市部にはその跡が見られず、侵入者が定住したことを疑問視する声もある。そしてリース・カーペンター (en) によれば、侵入者などは存在せず、ミケーネ文明が崩壊したのは自然の影響による破局であるとしている。 そして「海の民」の侵入とする説は北方で発生した民族移動によって故地を追い出された古地中海人種やインド・ヨーロッパ語族に属する人々などいろいろな要素を持った人々が集団を形成してギリシャへ侵入したとする説である。これらについては証拠も乏しく、また、海の民自体も侵入した先の人々と融合することにより速やかに姿を消したとしている。
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