ミケーネ文化の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 03:28 UTC 版)
「暗黒時代 (古代ギリシア)」の記事における「ミケーネ文化の崩壊」の解説
紀元前1200年頃、環東地中海を『前1200年のカタストロフ』が襲いかかった。このカタストロフによりヒッタイトは崩壊しエジプト新王国は衰退へと向かうことになるが、古代ギリシャにおいてもミケーネ文化が崩壊することとなった。 このカタストロフが到来したことにより、ミケーネでは巨石を使用した巨大な宮殿は姿を消し、金銀で作られた器、象牙細工など豊かさの尺度となるものも姿を消した。この後、ミケーネでは粗末な集落のみが存在しており、それまでに形成された陶器の技術も失われることになった。 ミケーネ文化における再分配システムの中心であった各地の宮殿が焼壊したことにより経済システムは崩壊、この再分配システムに使用されていた線文字Bも不要の長物と化し物資の貯蔵に用いられていた大規模な建築物も消滅することになった。このカタストロフは様々な解釈が存在しておりギリシャ人の一派であるドーリア人の侵入によるもの、地震による崩壊などがあるが、中には暗黒時代の存在を疑問視する声もある。 ミケーネ文化の崩壊には人口の集中過剰、経済の衰退、飢餓、地震、技術の衰退などが考えられているが、現在主流であるのは海から到来してテッサリアを拠点とした略奪者の為に崩壊したとする説である。しかし、これも確定に至っておらず崩壊の原因については論争が続いている。 また、宮殿は破壊された上に火を放たれており、これらの破壊活動は北から南へと進んでいる。しかし、これらの破壊を予測していたと考えられる跡も残っており、ミケーネ、ティリュンス、アテナイでは給水設備が設置されていたが、これらは包囲攻撃を予想していたとも考えられている。 しかしミケーネ文化が前1200年のカタストロフで一瞬に崩壊したわけではなく、極めて緩やかに衰退を遂げ、その要素は次世代へ受け継がれた。それらを示唆するものとしてアッティカやパレオカストロ (en) などでは宮殿崩壊後に栄えた集落跡が発見されている。また、アッティカやサラミスでの衰退への移行時代については亜ミケーネ文化と呼ばれており、過去にはミケーネ時代末期の変種と見做されていたが、その後、固有の年代幅で存在していたと見做されている。さらにエジプト、西アジアで行なわれた考古学的再評価によってミケーネ文化の崩壊が発生したのを前10世紀半ばにするべきという議論も存在する。 また、ミケーネ文化を担ったと思われる人々はエーゲ海に拡散しており、キプロス島ではミケーネ文化の影響が強く感じられるマア・パレオカストロ遺跡などが存在しており、さらにイスラエルのアシュドド (en) での調査の結果はペリシテ人が文化の基礎を確立するにあたりミケーネ文化の人々が貢献した事を示唆している。
※この「ミケーネ文化の崩壊」の解説は、「暗黒時代 (古代ギリシア)」の解説の一部です。
「ミケーネ文化の崩壊」を含む「暗黒時代 (古代ギリシア)」の記事については、「暗黒時代 (古代ギリシア)」の概要を参照ください。
- ミケーネ文化の崩壊のページへのリンク