ミイラと開口の儀式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 09:11 UTC 版)
「古代エジプトの宗教」の記事における「ミイラと開口の儀式」の解説
クフ王が建設したピラミッドの一つから、王妃の墓が発見された。その中には王妃の遺体はなかったものの、木箱の中から保存されていたミイラ化した王妃の内臓を発見した。このことから、第4王朝には、少なくとも王家の人々の間では、内臓を摘出し、乾燥を促すというミイラ作りが発達していたことが明らかとなった。 今日、ミイラ作りとして知られている、化学的処方による遺体の保存は、明らかに古王国時代の初期になって、初めて導入されたものである。しかし、ミイラ作りは、最初、王家の人々に対してだけ行なわれたものであり、貴族たちは、初期王朝時代の王族たちの慣習に従って、堅い詰物や包帯で遺体の形を保存する方法を採っていた。 残念ながら、古代エジプトの文字資料の中には、ミイラ作りの技術に関する記録はない。ミイラ作りに関する最も完全な記録は、二人のギリシャの歴史家の著作の中に見出すことができる。ひとつは、紀元前5世紀のヘロドトスのもので、もうひとつは、それから約400年後に本を著わしたディオドロス・シクルスのものである。 ミイラができ上がると、その遺体、あるいはそれに代わる像に対して、「開口の儀式」として知られる儀式を行なわなければならなかった。この儀式は、王族以外の人々に対しても行なわれるようになった。古代エジプト人は、この儀式により、遺体(あるいは保か壁の浮き彫り)に生命力が再び宿り、生きている者と同じ活動ができるようになると信じていた。儀式では、まず香をたき、水を撒いてから、手斧でミイラあるいは像の口、手、足に触れ、死者の魂が再び体内に入り、供物を取ることができるようにした。 ピラミッドの中に一度入った葬送の行列に参加できるのは、葬儀に携わる神官たちと高位の役人だけであった。それは彼らが、最後の密儀を見るにふさわしい儀式的に十分に清らかな存在であると見なされていたからである。 葬送の儀式の最後の段階は、ピラミッドに隣接した葬祭殿の中で行なわれた。そこには、入口の広間、屋根のない中庭、像を納める五つの壁記、供物や日用品を納める倉庫、そして西壁には偽扉を持つ至聖所があった。ここにある低い祭壇の上に、神官たちは、王の魂のために日々の供物を捧げた。葬祭殿には、主要なふたつの機能があった。ひとつは、王の死後使用されることを目的とした供物を捧げる礼拝所としての機能であり、もうひとつは、王の葬儀に際して重要な儀式を執り行なう場所としての機能であった。ここで、遺体がピラミッドの内部の埋葬室に運び込まれる前に、古代の町であるサイスとブトとに結びついたふたつの埋葬の慣習が行なわれた。このように、ピラミッドは、外界から完全に遮断された聖城であって、中に入ることができるのは神官だけであった。 しかし、葬祭殿において王のために行なわれた「開口の儀式」は、貴族に対しても行なわれるようになり、ついには、華麗な葬儀を行なう財力のある者全てに対して行なわれるようになった。この儀式は、死者の体に生命力と五感とを取り戻すものであると信じられていたからである。
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