マルティニの中国古代史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:08 UTC 版)
メンドーサ『中国大王国誌』や同類の書籍は間接的な情報に限られ、また根拠の曖昧さもあって、それ程問題にはならなかった。ところが1658年、マルティノ・マルティニ(1614年 - 1661年)が『中国古代史』を出版すると、大きな論争が巻き起こった。マルティニは中国に渡ったイタリア人のイエズス会士で、多くの中国情報をもたらした。明から清への易姓革命は『韃靼戦争記』(1654年)、中国地図と地誌は『中国新図』(1655年)として出版し、革命後の清朝に17名の宣教師を伴い再び赴いた。彼らの中からは、『大学』『中庸』『論語』のラテン語翻訳や孔子を紹介した『中国の哲人孔子』などを著したフィリップ・クプレや儒教思想を紹介したプロスペロ・イントルチェッタらがいた。 「ヨーロッパで初めて出版された、最も信頼に足る中国史」と評されたマルティニの『中国古代史』は、伏羲を最古の歴史的実在として認め、以下の三皇五帝・夏・殷・周などの諸王朝を事実として紹介した。そして堯の時代に起こった大きな洪水がノアの大洪水だったと定め、その年号を紀元前2349年と計算した。しかしこの考えでは大洪水以前に五人の王が存在したことになってしまう。 マルティニは、中国の伝説に紀元前3000年頃に別の大洪水が起こったという点に着目し、七十人訳聖書を採用しこの洪水をノアの大洪水に当てはめれば問題を回避できることを指摘した。しかし彼はここで考察を止めず、伏羲以前の中国の状況を想像した。君主が生まれるからには社会的人間集団が存在しなければならず、そこに至るには記録されない歴史が刻まれているはずである。そしてマルティニは、古代中国にはノアの大洪水以前に人間が居住していたという結論に至った。 イエズス会は布教において、現地の歴史や習慣を学び取りながら、時に妥協を交えた活動を行った。しかしマルティニの結論は普遍史の否定に繋がるもので、この点からもマルティニは中国文明の支持者となり、圧倒的な中国史の前に傾倒せざるを得なかったものと推測される。そしてこの態度はイエズス会派だけではなく、アウグスティノ派であるメンドーサやラーサの例を始めとして多くの宣教師が、ヨーロッパ諸氏族史のような空想的な部分を含まず、時に天文学的観測結果を伴いもする中国史の正しさを認めた。
※この「マルティニの中国古代史」の解説は、「普遍史」の解説の一部です。
「マルティニの中国古代史」を含む「普遍史」の記事については、「普遍史」の概要を参照ください。
- マルティニの中国古代史のページへのリンク