ボリビアでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 14:06 UTC 版)
「クラウス・バルビー」の記事における「ボリビアでの活動」の解説
1957年10月7日にはボリビア国籍を取得することに成功し、この後数十年間にわたり、ボリビアの軍事政権とアメリカの事実上の庇護のもとに、バルビーはドイツ系ボリビア人「クラウス・アルトマン」として、1964年から政権を握ったレネ・バリエントス・オルトゥーニョ将軍をはじめとする、ボリビアの軍事政権の歴代指導者の治安対策アドバイザーを務めることとなる。 ボリビアの軍事政権のアドバイザーとして、バルビーは同国内で活動していた共産主義組織や反政府ゲリラ組織だけでなく、労働組合などの左翼シンパと目される組織に至るまで目を光らせ、後には1967年10月に同国の軍事政権とCIAの協力の下で行われたチェ・ゲバラの身柄確保と処刑にも関与したと報じられた。また、元党員とともにナチス再興のための組織を設立したほか、戦犯逃亡や武器の密輸などの犯罪行為を通じて、イタリアの極右政党「イタリア社会運動(MSI)」幹部で極右秘密結社「ロッジP2」代表のリーチオ・ジェッリとも深い関係にあった。 さらにオーストリアのシュタイア・プフなどの大手軍需企業との間の武器取り引き会社や海運会社を設立させて大金持ちとなっただけでなく、海運会社の役員の「クラウス・アルトマン」を名乗り、自らを戦争犯罪人ということで指名手配させていたフランスにも渡航していた。 しかし1972年に、ペルーのリマで発生した殺人事件の被害者と容疑者に関係のあったバルビーはリマ市警に眼をつけられた。そしてこの実業家が、実はフランスの破毀院によって死刑の判決が出ている戦争犯罪人であることが判明した。事件後、バルビーは公然と姿を現わし、自分の正体を認めた。そしてボリビアのテレビに出演して、親衛隊員の過去を礼讃した。世界のマスコミが騒然となりボリビアに殺到した。バルビーはマスコミに回想録を売りつけ、戦後、西ドイツのゲーレン機関に関係していたことを暴露して、世界を驚かせた。またバルビーは「戦争犯罪と考えられるいかなる行為にも関わっていない」と強く主張した。 その後もバルビーは、1980年6月に政権を奪取した民主人民連合(UDP)による左派政権に対して、同年7月17日ルイス・ガルシア・メサ・テハダ将軍が起こした軍事クーデターにも関与するなど、ボリビアの軍事政権との関係を続けた。なお、ボリビアの歴代軍事政権は、フランス政府によるバルビーの引き渡しを、バルビーが「ボリビア人」であることを根拠に公然と拒否し続けた。しかしガルシア政権は、バルビーが深く関与した左翼活動家への弾圧などにより国民からの反発を受けただけでなく、コカインの生産および輸出への深い関与が証明されたことから、後見人的立場であったアメリカの支持を失い、翌年に退陣することとなった。
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