国民からの反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:30 UTC 版)
「アンワル・アッ=サーダート」の記事における「国民からの反発」の解説
この歴史的合意により、サダトはベギンとともに1978年ノーベル平和賞を受賞し世界各国から高い支持を受けた。が、このエジプト=イスラエル単独和平は「パレスチナのアラブ人同胞に対する裏切り」と受け取られ、スーダンのモハメド・アン=ヌメイリを除くアラブ諸国の指導者とイスラム教徒の民衆の反感を招き、サダト政権は次第に孤立する。また1974年から1982年まで2度の石油危機もあって急激に成長したものの、経済自由化と外資導入のインフィタ政策の結果、エジプト社会に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まっていた。 1978年11月、イラクのバグダッドで行われた1978年アラブ首脳会議(英語版)でエジプトは主導国であるにもかかわらず、アラブ連盟を追放された。同時にアラブ連盟の本部もエジプトのカイロからブルギーバ政権下のチュニジアのチュニスへと移転した。この会議を主催してエジプト追放に成功したイラクはエジプトに代わってアラブの盟主になることも目論み、後にイラン・イラク戦争を引き起こす原因の1つになったともされる。 1979年1月、イランでルーホッラー・ホメイニーが指導するイラン革命が勃発した。サダトは親しかったモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝のエジプトへの亡命を受け入れたものの、その後パフラヴィーがアメリカへ向かうと、イスラム教徒を中心に猛烈な反発を受けることになった。 イスラム教徒や知識層からの反発が強まる中、1981年9月に、サダトは共産主義者、ナセル支持者、フェミニスト、イスラム原理派、大学教授やジャーナリスト、学生運動家といった知識人および政治的活動家の多くを厳しく取り締まり拘束した。その数はおよそ1600人におよび、国際的な非難を受けた。 この間に発生した経済恐慌と反対派に対する抑圧によって、サダトに対する国民の支持はますます失われていった。
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