国母へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:42 UTC 版)
長和元年(1012年)2月14日に皇太后、寛仁2年(1018年)正月7日に太皇太后となる。この間、長和5年(1016年)正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。なお、道長の摂政就任と退任の上表は幼少の天皇ではなく彼女宛に出され、退任後の太政大臣補任も彼女の令旨によって行われている。これは天皇の一種の分身的存在である摂政(およびその退任者)の人事が、天皇や摂政自身によって行われることは一種の矛盾(自己戴冠の問題)を抱えていたからだと考えられている。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた。しかしこの後摂関家一族の姫は、入内すれども男児には恵まれないという不運が続いていく。 万寿3年(1026年)正月19日、落飾し法名を清浄覚とする。同日、一条天皇母后で、彼女にとっては伯母で、義母でもあった東三条院詮子の先例にならって女院号を賜り、上東門院を称した。後年、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院ともいう。
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