ペトロとキリスト教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:37 UTC 版)
カトリック教会ではペトロを初代のローマ教皇とみなす。これは「天の国の鍵」をイエスから受け取ったペトロが権威を与えられ、それをローマ司教としてのローマ教皇が継承したとみなすからである。 一方正教会、非カルケドン派ではペトロが初代アンティオキア総主教であり、のちにローマに行き致命した(殉教した)とするが、全世界の教会に対する権威をペトロが持っていたとは認めていない(ペトロを初代ローマ主教に数えるかどうかについては正教会内で見解が分かれる)。正教会の教会論では全ての主教がペトロを受け継ぐものである。 一方、カトリックから分離した経緯をもつプロテスタント諸教会では、ペトロの権威は継承されるものでなく、彼一代限りのものであるという解釈を示している。また多くのプロテスタント教会ではペトロを「聖ペトロ」・「聖ペテロ」と呼ぶことはしない。 新約聖書の公同書簡に属する『ペトロの手紙一』と『ペトロの手紙二』はペトロの書簡であるが、高等批評では彼自身のものではないという説があり、アラマイ語を母語とする漁師出身のペトロが、書簡に現れる一定の水準をもったギリシア語をつづる能力があったと考えることは困難であるとの理由である。一方聖書根本主義側からは、その論理を採用するなら、ヨハネの福音書や手紙、黙示録、また、マタイの福音書の著者も誰なのか確定できなくなる、秘書あるいは教えを継承した者によって記されたものが、出所/ソースの名に帰せられたことは、充分考えられることであるとして批判している。第三者の著作であるとの見解を持つ神学者の中にも、第1書簡については、ギリシア語を話すペトロの同伴者のもので、比較的よくペトロの思想を反映している可能性を指摘する者もいる。 第2書簡は、2世紀以後の著作である可能性が指摘される。第2書簡が正典視されたのは4世紀半ば以後であり、シリア正教会では6世紀まで第2書簡を正典には数えなかった。 また新約外典のなかにも、『ペトロの黙示録』などペトロの名を冠した文書があるが、これらは初代教会の時代からペトロのものとは考えられておらず、正典におさめられることがなかった。
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