ベビーブーマーと自由な精神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/23 14:58 UTC 版)
「カリフォルニア州の歴史」の記事における「ベビーブーマーと自由な精神」の解説
戦後、数多くの土地開発者が土地を安く買い、それを分割して家を建て、金持ちになった。不動産の開発は南カリフォルニアの主要産業としての地位で石油や農業に取って代わった。1955年、アナハイムでディズニーランドがオープンした。1958年、大リーグのロサンゼルス・ドジャースとサンフランシスコ・ジャイアンツがそれまでの本拠地ニューヨーク市を離れて移ってきた。カリフォルニア州の人口は劇的に拡大し1970年までに2,000万人近くになった。これはベビーブーム世代の成人だった 1960年代遅く、ベビーブーム世代が徴兵年齢に達し、多くの者が逮捕される危険を冒してベトナム戦争に反対した。多くのデモやストライキが起こり、最も有名なものはサンフランシスコからは湾の向かいにあって、権威有るカリフォルニア大学バークレー校だった。1965年ロサンゼルスの南中部にあるワッツで人種暴動が起こった。ロサンゼルスのサンセット通りでのヒッピー暴動はバッファロー・スプリングフィールドの『For What It's Worth』(何のための価値なのか、1966年)で不朽のものにもなった。連邦政府はベトナム戦争からの撤退を約束したが、結局1974年まで続いた。急進的な政治運動はその目的の多くを達成したが、構成員や資金も失った。 カリフォルニアは自由な精神、開けっぴろげな心、何とかなるという生活の地だった。当時のポピュラー・ミュージックのタイトルは『カリフォルニア・ガールズ』、『カリフォルニア・ドリーミング』、『サンフランシスコ』、『サンホセへの道を知ってるかい?』(Do You Know the Way to San Jose?)および『ホテル・カリフォルニア』のようなものだった。これらはカリフォルニアでの天国的な気候で生活の容易さが約束されていることを反映していた。サーフィン文化が成長した。多くの者が低賃金の仕事を選び海岸でトレーラーに住むサーファーに加わり、また別の多くは大望を棄てて都市のヒッピーの自由な生活に加わった。 最も有名なヒッピーの溜まり場はサンフランシスコのハイト・アッシュベリー地区だった。州内の都市、特にサンフランシスコはその上品さと寛容さで有名になった。独特で長閑なカリフォルニアの文化は短期間に作られた。この文化のピークは1967年であり、「愛の夏」と呼ばれた。合衆国の他の場所からは、しばしば軽蔑的に、また羨みも持って「果実の土地」と呼ばれるようになったが、カリフォルニア人自身はこれを楽しい生活と分かっていた。
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