プロ選手出場が解禁されるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 20:26 UTC 版)
「バスケットボール男子アメリカ合衆国代表」の記事における「プロ選手出場が解禁されるまで」の解説
1936年のベルリンオリンピックでバスケットボールが公式種目として採用されて以降、男子アメリカ代表は4つの例外を除いて全ての大会で優勝してきた。一つは1972年のミュンヘンオリンピック、次は西側諸国がボイコットした1980年のモスクワオリンピック、1988年のソウルオリンピック、もう一つは2004年のアテネオリンピックである。アメリカが出場しなかったモスクワ五輪を除き、アメリカが敗れたのはミュンヘン五輪とソウル五輪、アテネ五輪のみだった。 1972年のミュンヘン五輪は東西冷戦たけなわの頃で、米ソは互いに強いライバル心を持っていた。この大会の決勝戦ではアメリカとソ連の代表が対決。試合終了間際の場面でソ連側が審判の判定に抗議し、時計が試合終了3秒前まで戻されやり直しとなった。同じことがもう一度繰り返された末、アレクサンドル・ベロフのシュートが決まり51-50でソ連が勝利を収めるという結果となった。アメリカの強い抗議にもかかわらずソ連の優勝は動かず、アメリカが銀メダル受け取りを拒否するという遺恨試合となった。 1988年のソウル五輪で、アメリカは再びソ連と対戦した。この時は準決勝での戦いとなったが、ミュンヘンの時のような微妙な判定によるものではなく、82対76と地力の差により敗れる形となった。アメリカはデビッド・ロビンソン、ダニー・マニング、ダン・マーリーら後にNBAのスターとなった選手を擁していたが、同じく将来NBAで活躍するアルビダス・サボニスらを核としたソ連代表に一歩及ばなかった。アメリカは結局銅メダルを獲得してソウルを去った。 バスケットボール発祥の地であり、バスケットボール大国として君臨してきたアメリカが実力で敗れたため、この敗北はアメリカのバスケットボール関係者に大きなショックを与えた。一方で、選手構成ではソ連に有利な面があることも事実だった。すなわち、出場選手がアマチュアに限定されていた五輪においては、ソ連を含む共産圏諸国は国家のトップクラスの選手が国家公務員というアマチュア名義(ステート・アマ)で五輪に出場でき、かつ国家のバックアップにより競技中心の生活を行えたという利点がある一方で、アメリカはトップクラスの選手がプロフェッショナルで五輪に参加できず、その帰結として伝統的に大学生が主体だった。ソウル五輪まではミュンヘンの例外を除けば、将来のNBAのスター候補生からなるバスケットボールエリートの学生主体のチームでも東側諸国を退けて優勝することができた。しかし、アメリカはついに学生のチームでは勝てない状況に直面した。そして、そのアマチュア主義が見直される時期が迫っていた。
※この「プロ選手出場が解禁されるまで」の解説は、「バスケットボール男子アメリカ合衆国代表」の解説の一部です。
「プロ選手出場が解禁されるまで」を含む「バスケットボール男子アメリカ合衆国代表」の記事については、「バスケットボール男子アメリカ合衆国代表」の概要を参照ください。
- プロ選手出場が解禁されるまでのページへのリンク