プラッシーの戦いと死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/11 15:14 UTC 版)
「シラージュ・ウッダウラ」の記事における「プラッシーの戦いと死」の解説
同年6月23日朝、先手を打ったクライヴはプラッシー村に野営していたベンガル軍に攻撃を加え、ベンガル軍もすぐにこれに応戦し戦闘が始まった(プラッシーの戦い)。 ベンガル軍62,000はシラージュ・ウッダウラの武将モーハン・ラールとミール・マダン率いる歩兵5000人と騎兵7000、太守の叔父ミール・ジャアファル率いる歩兵35,000人と騎兵15,000人から構成され、あとはフランスの援助である少数の砲兵隊であった。一方、イギリス軍の構成は、ヨーロッパ人兵800名とインド人傭兵2300人と、太守軍に対し極めて少数だった。 このように、ベンガル軍のほうがイギリス軍より圧倒的有利であったが、歩兵35,000人と騎兵15,000人を率いベンガル軍に味方していたミール・ジャアファルはイギリスとの秘密協定により自分の軍を動かさず、ベンガル軍の主力50,000は傍観するだけで戦闘に参加しなかった。 つまり、ベンガル軍の4分の3近くは戦闘に参加していなかったことになるが、シラージュ・ウッダウラは戦いに参加しないのはミール・ジャアファルの作戦だと思い込み、全く疑おうとしなかった。 昼からモンスーンの影響で大雨が降りはじめ、戦いは小休止となり、イギリス軍は素早く装備を雨から保護した。だが、ベンガル軍は訓練不足で雨から装備を保護できず、銃や火薬が水浸しになり火器がまともに使えなかった。このため、午後2時に雨が止んだ後、イギリス軍の一方的な功撃にあい、ベンガル軍の司令官たちは相矛盾する命令を送り、兵の士気も低下し混乱し始めた。 まもなく、武将ミール・マダンが砲撃で戦死すると、シラージュ・ウッダウラは気落ちして、ミール・ジャアファルに助言を求めた。ミール・ジャアファルは手にコーランをのせてシラージュ・ウッダウラに忠誠を誓い、「明日自分がイギリス軍への総攻撃をかけるので、今日はもう日も暮れているから戦闘をやめましょう。」と言った。 だが、モーハン・ラールは「今の状況で戦闘を停止すれば味方の軍は今日の戦闘に敗れたと誤解し、夜半に乗じて四散してしまいます。」と反対した。にもかかわらず、シラージュ・ウッダウラはミール・ジャアファルを完全に信頼しきっており、全軍に戦闘停止を命じた。 しばらくすると、モーハン・ラールの心配した通り、ベンガル軍に動揺が広がり、逃げ出す兵が続出し壊走に近い状態となり、シラージュ・ウッダウラもあせりはじめ,首都ムルシダーバードへ逃げ出した。一方、戦闘停止を提案したミール・ジャアファルは公然とイギリス軍に合流し、クライヴに勝利の祝意を伝えた。 そして、7月4日、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラは逃げきれずにミール・ジャアファルの息子ミール・ミーラーンに捕えられ、その命令により殺害された。彼の遺体は首都ムルシダーバードへと運ばれ、祖父アリーヴァルディー・ハーンの眠るクシュバーグに埋葬された。
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