ブーム初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:30 UTC 版)
ビニ本ブームの発祥の地は神田神保町の芳賀書店とされる。芳賀書店のエロ本コーナーの売れ行きが良かったため、エロ本コーナーの拡大に際して立ち読み禁止の為にエロ本にポリ袋をかけたところ、客の回転率が跳ね上がった。そこで1979年、ビニ本に特化した支店である「芳賀書店 神田古書センター店」を開店したところ、ニュースや雑誌にも取り上げられるほどとなり、一躍ビニ本がブームとなった。もともと芳賀書店は、古書の街・神保町という一等地に店を構え、書籍販売業よりも学術書などの出版業をメインとしていたが、経営難のために成人向け雑誌をビニール袋に入れて販売するようになると年商が3億を超え、その金で本社ビルを新築するほどであった。1981年には、「ツービート」として人気絶頂期のビートたけしも『俺は絶対テクニシャン』で「うーん、ビニ本!」「芳賀書店!」と叫び、「週刊少年マガジン」で連載中の『1・2の三四郎』(1981年度講談社漫画賞少年部門受賞)でも主人公が芳賀書店で大量のビニ本を購入する姿が描かれるなど、1981年当時は広く人口に膾炙していた。神田古書店街の多くの古書店と特価本卸がビニ本屋に鞍替えし、神田神保町はビニ本の聖地となった。 ビニ本の爆発的な流行に伴い、多数のメーカーが設立され、多数のビニ本が出版されるようになった。1980年に出版された岡まゆみの『漫熱』はベストセラーとなり、一般新聞、TVでも大きく取り上げられた。 小規模な書店や個人経営の書店では店の奥に成人コーナーを設け販売することが多かったが、ビニ本ばかり揃えた専門書店も存在した。神田神保町や歌舞伎町にはそのような専門書店がたくさん存在し、神田神保町に3店舗を構えた芳賀書店が代表的な書店であった。最盛期にはビニ本を出した出版社は30~40社もあり、一ヶ月に新作が120冊も出た。発行部数は月130万~140万部だったともいわれる(『週刊朝日』1980年9月19日号)。 ビニ本ブームの影響で、それまで隆盛していた自販機本はビニ本に押されるようになり、1980年頃を最盛期として、衰退の道へと入る。自販機本は、表紙と数枚のグラビアが多少エロい他はサブカル色が強い内容だったりと、エロ目的で読んだ人はがっかりする場合が多かったのに対し、ビニ本は価格が2000円くらいと、自販機本よりかなり高価だったが、露出度が高く、質が高かった。 ビニ本は次第に露出度を高め、過激さを増した。当初は墨でのベタ塗りによる消しであったが、ショーツの布地を一枚にすることで下着の向こうがうっすらと透けて見える「スケパン」の手法が1980年に開発された。1980年代当時の日本では陰部よりも「陰毛(ヘア)」が猥褻の基準であると考えられていたため、うっすらでも「陰毛」が見えるビニ本は当時の青少年にとって衝撃的であった。モデル女性が着用した下着は当初、陰部がやや透けて見えるか見えないかの程度であったが、次第に下着の透明性が増していき、あるいは下着に代えて極薄のレース布を軽く被せて済ませたり、下着を着けずにパンティストッキングを直穿きさせたりするなど、ヘアのみならず女性器・陰部までが透けて見えるようになった。このような書籍がビニール袋に入れて公然と書店で販売されるようになったことから、警察に目を付けられ、1980年には芳賀書店の芳賀専務が逮捕されるなど、摘発が相次ぎ、1982年には第1次ビニ本ブームは終息する。
※この「ブーム初期」の解説は、「ビニ本」の解説の一部です。
「ブーム初期」を含む「ビニ本」の記事については、「ビニ本」の概要を参照ください。
- ブーム初期のページへのリンク