ブロンベルク再婚問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 01:18 UTC 版)
「ブロンベルク罷免事件」の記事における「ブロンベルク再婚問題」の解説
1937年の夏頃からブロンベルクは平民出身のタイピスト、エルナ・グルーンと交際していた。この頃ゲシュタポ長官ハイドリヒは、ブロンベルクが頻繁にエルナの許を訪れているのを探知している。11月下旬頃、ブロンベルクは結婚の意思を固め、空軍総司令官ゲーリングに援助を依頼した。 プロイセン王国時代から、ドイツ将校の結婚相手は軍人か貴族の家系というのが伝統であった。しかしエルナは平民の出身であり、この結婚は異例なものであった。将校団の反発を予想したブロンベルクは、ヒトラーやゲーリングの援助を受けて結婚を成功させようという目論見があった。 自分も平民出身であるゲーリングは祝福し、ヒトラーも同意見であろうと語っている。ところが数日後、再びブロンベルクがゲーリングの許を訪れ、エルナの男友達の「処置」を依頼する。男友達はゲーリングの指示でアルゼンチンに「栄転」することになった。この時、その男友達はエルナについて「いまわしい経歴」があることをゲーリングに告げている。 12月、ゲーリングは親衛隊全国指導者ヒムラー、ハイドリヒらと協議し、ブロンベルクにはエルナの関係の、フリッチュを当時犯罪とされていた同性愛のスキャンダルを作りだし、失脚させる計画を立てている。ハイドリヒはブロンベルクへの監視と、フリッチュの容疑の証拠作成を行い始めた。ブロンベルクは何も知らず、20日にはヒトラーに結婚の許可を求めている。ヒトラーは「民主的な結婚」と賞賛し、祝福した。しかし、将校団に対しては連絡しなかった。ただ、ヴィルヘルム・カイテル中将には娘がカイテルの息子と婚約している関係上、結婚を報告したものの、相手は平民の娘だとしか語らなかった。 ブロンベルクが結婚の証人の人選についてゲーリングに相談した。ゲーリングは陸軍総司令官フリッチュと、海軍総司令官レーダーを推薦した。二人は快諾したが、ハイドリヒはこれを利用し「ブロンベルクといかがわしい女性の結婚の証人」になったという理由で、両司令官を排除する計画を立てていた。しかしこの情報は、ハイドリヒの友人からフリッチュとレーダーに伝えられた。フリッチュとレーダーは証人を辞退し、ブロンベルクの不興を買うことになる。結婚の証人はヒトラーとゲーリングがつとめることになった。 1938年1月12日、ブロンベルクとエルナの結婚式が行われた。しかし結婚式にはブロンベルク側の親類が一人も出席しないなど、異常なほど内輪なものであった。また、高官の結婚というのに、夫人の写真も公表されなかった。この頃、夫人にまつわるいかがわしい噂が流れ出した。ラジオ放送ではじめて結婚を知り、しかもその相手がいかがわしい噂を持つ、娘ほどの年齢であることを知った将校団は、ブロンベルクに対する反感を抱くようになった。 再婚の直後、エルナ夫人らしき女性のヌード写真がベルリン警視総監ヘルドルフの許に届けられた。ヘルドルフは写真と、その写真の女性の売春行為の摘発記録を持参し、ブロンベルクの縁者であるカイテルの許を訪れた。カイテルは写真を証人であるゲーリングに見せ、確認しようとした。ゲーリングはヒムラー、ハイドリヒと協議した上、ヒトラーに報告した。ヒトラーはブロンベルクの解任を決定し、1月26日にブロンベルクに対して罷免を通告した。
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