ブラック・ケトル・バンドのウォシタ河畔への帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 10:22 UTC 版)
「ウォシタ川の戦い」の記事における「ブラック・ケトル・バンドのウォシタ河畔への帰還」の解説
ブラック・ケトルと他の酋長達は、グリッフェンスタインから支給された食料を持って、11月21日頃にコブ砦を出発し、嵐の中を旅して11月26日の夜にウォシタ川沿いの彼等の野営に到着した。 一方、その前夜にあたる11月25日、ブラック・ケトル、メディシン・アローズ、リトルローブおよびオールドワールウィンドの野営地を出た150名程のインディアン戦士団が、スモーキーヒル・リバー・カントリーで「ドッグ・ソルジャー」(シャイアン族の命知らずの防衛戦士団)と共に、白人入植地攻撃を終えてこの野営地に戻ってきた。第7騎兵隊のジョエル・エリオット少佐は11月26日に野営に続く彼らの足跡を見つけ、この報告がカスター隊をウォシタ川へと向かわせることになった。 11月26日、ブラック・ケトルがウォシタ川の野営に到着したその日、ユテ族との交戦から戻ってきたカイオワ族の一隊が彼らの野営に帰る途中で、ブラック・ケトル・バンドの野営地そばを通り過ぎた。彼等はシャイアン族に、カナディアン川沿いアンテロープヒル近くを通った時に、南のウォシタ川野営地に向かう白人の大部隊(カスター隊)の跡を見たと告げた。シャイアン族はすでに白人とは和平協定を結んでいるのだから、白人兵がこの冬の嵐の中を、遙かこの南の地までやってくるとは信じなかった。カイオワ族は自分達の野営に帰ったが、1人の部族員トレイル・ザ・エネミーはブラック・ケトルの野営地で友達と一晩過ごすことにした。 11月26日、エリオット少佐の一隊が見付けた道を戻ってきたシャイアン族戦士の1人クロウネックが、バッドマン(クランキーマンとも呼ばれた)に、来る途中で疲れ切っていた馬を残してきたと告げた。クロウネックが馬を取りに戻ると、北の方に動く人影が見えた。これを白人の兵士と見た彼は怖くなって馬を取り戻さずに戻った。バッドマンはクロウネックが白人兵士を見たというのを疑い、彼が酋長の意に反して戦士隊に加わったために、臆病風に吹かれたんだろうと言った。クロウネックはまた笑われることを恐れ、見てきたことを他の誰にも告げなかった。 11月26日夜、帰還したブラック・ケトルはバンドの酋長を自分のティーピーに集めて会議を開き、コブ砦で知ったシェリダンの戦闘作戦を伝えた。議論は11月27日の早朝まで続いた。この会議で、「脚が埋まるような雪が消えれば、米軍兵士達に伝令を走らせて、誤解を解き、ブラック・ケトル・バンドの部族民は平和を望んでいると明確にするように努める」ということが決められた。また、彼等は翌日(11月27日)その野営地をさらに下流の、他のインディアン野営地に近い場所に移すことも決めた。 「ウォシタ川の虐殺」の時に当時14歳だったムービング・ビハインド・ウーマンに拠れば、ブラック・ケトルの妻、メディシン・ウーマン・レイターはティーピーの外で暫く佇み、野営地をその夜に移動できなかったことを怒って、「私はこの遅れが気に入らない、私たちはもっと早くに動くことができたはずだ。インディアン代理人は直ぐにでも立ち去れと伝言してきた。私たちはまるで気違いかつんぼになったように聞く耳を持てなかった。」と言った。メディシン・ウーマン・レイターは、白旗を掲げたブラック・ケトル・バンドを米軍が無差別虐殺した「サンドクリークの虐殺」の際に、身体に9発銃弾を受けて負傷していた。彼女は白人の和平の約束が信用できないものであることを身を以て痛感していた。 ブラック・ホークの兄弟であるホワイト・シールド(ジェントル・ホースとも呼ばれた)は、「狼たちが強力な敵のためにちりぢりになり、頭の右側を怪我した狼が、殺された子供達のことを悲しんでいる」という幻視を見た。この幻視を元にして彼はブラック・ケトルが即座に野営地を移動させるよう説得しようとしたが、叶わなかった。しかし、ブラック・ケトルの5人の子供達(娘4人と息子1人)は、ブラック・ケトルの甥であるワールウィンドの野営地に移動した。そこはブラック・ケトルの野営地から下流に16km、直線では8kmの距離にあった。
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