フェルナンド7世の復位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:29 UTC 版)
「イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「フェルナンド7世の復位」の解説
1814年3月にフランス第一帝政が崩壊すると、フェルナンド7世はスペイン国王に復位した。数多くのフンタ、そしてスペインとイスパノアメリカのコルテスによる政治と法制改革、新しい憲法や法典の制定などがフェルナンド7世の名において行われたが、フェルナンド7世はスペイン憲法を支持するとスペイン領に入る前に緩く約束した。しかし、スペインに入り、保守主義者やスペインのカトリック教会(英語版)からの支持を受けていることがわかると、彼は5月4日に憲法を拒否して、同10日に自由派の指導者の逮捕を命じた。フェルナンド7世はコルテスが彼の欠席したまま招集されたため、そのコルテスが行った憲法制定や制度改革は無効であるという理由で憲法拒否を正当化した。彼は法典と政治機関を元に戻し、伝統的なコルテス(聖職者と貴族とそれ以外が別の議院に分けられているコルテス)の招集を約束した。その後、フェルナンド7世の行動の報せがイスパノアメリカに伝わったが、スペインからの交通に要する時間(英語版)が異なったため報せが伝わる時期は3週間後から9か月後と幅があった。 フェルナンド7世の行動は実質的には各地の独立を宣言していない自治政府からも、海外植民地を含む代議制政府を設立しようとしたスペイン自由派からも断絶することを意味した。ヌエバ・エスパーニャ、中米、カリブ海、キト、ペルー、アルト・ペルー、チリなどイスパノアメリカの各地域では独立のほか、海外植民地を含む代議制政府も受け入れられる選択肢の1つであった。しかし、アンシャン・レジームの復活という報せは1809年と1810年のときのようにフンタ設立の動きを起こさず、クスコでスペイン憲法の実施を求めるフンタが設立された(1814年クスコ反乱(スペイン語版))のみであった。その代わり、イスパノアメリカ人の多くが中道派であり、状態が正常に戻った後の様子を見て決めようとした。実際、ヌエバ・エスパーニャ、中米、キトの一部地域では現地社会との紛争を避けるために、総督が憲法に基づき選出されたアユンタミエント(市参事会)を数年間残した。いずれにしても、スペイン本国でもイスパノアメリカでも自由派が国を立憲君主制に戻すための計画を立て、1820年のスペイン立憲革命で成功した。両大陸間の協力の一例としては1816年と1817年にマルティン・ハビエル・ミナ・イ・ラレア(英語版)が行った、テキサスとメキシコ北部への遠征がある。 イスパノアメリカの王党派地域では独立の支持者たちはすでにゲリラ活動に身を投じた。しかし、フェルナンド7世の行動は王党派が支配下に置いていない地域を完全独立支持に動かした。これらの地域の政府は1810年のフンタを起源としており、国王との和解に賛成した中道派もすでに実施された改革を守るためにはスペインからの分離が必要であると信じるようになった。
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