ファンジオとモスの起用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)
「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「ファンジオとモスの起用」の解説
ファン・マヌエル・ファンジオ スターリング・モス ファンジオの起用(1954年) 1950年にメルセデスチームが活動を再開した際、1951年初めのブエノスアイレスグランプリ(英語版)に参戦するため、アルゼンチンに遠征する計画が持ち上がった。このために用意されたのはW154で、戦時中はウンターテュルクハイムに保管されていた古い2台と、疎開中に行方不明になりベルリンの中古車販売店で偶然発見された2台を使って組み立てられたものだった。この車両の出来はかつての栄光とは程遠いもので、練習走行に参加したカラツィオラはこの車両によるレース参戦を拒否した。 そこでカラツィオラの代役として白羽の矢が立てられたのがファンジオで、こうしてメルセデスチームとファンジオの間に縁ができた。 1954年のメルセデスチームのF1復帰にあたって、チームへの加入を打診されたファンジオは、その時点では車の戦闘力が不明だったため、申し出を受けることを躊躇したが、ノイバウアーが様々な説得工作を駆使して口説き落としたとされる。 私の見立てでは、勝利の要因の75%は車とそれを支えるチームに帰するもので、残りの25%はドライバーと運の要素によって占められている。(レースキャリアで)最高のチームはメルセデスだった。技術的に極めて卓越した彼らのためにレースをしている間、私は何の懸念も抱くことはなかった。彼らの車は全く壊れなかった。それが私が1954年と1955年にメルセデスのために走った12戦中8回の優勝を成し遂げた要因だ。 —ファン・マヌエル・ファンジオ モスの起用(1955年) 1954年シーズンは圧勝こそしたものの、ノイバウアーはドライバーのラインナップには改善が必要だと判断した。ラングは年齢とブランクによる衰えが大きく、クリング、ヘルマンもファンジオに比べると実力差があり、ファンジオにトラブルが発生した際にフォローできるドライバーがいないという問題を抱えていた。 スターリング・モスは1954年にマセラティで走っており、新人ながらイタリアグランプリでメルセデスをリードする印象的な走りを見せ、これによりノイバウアーの目に留まり、ファンジオをサポートするセカンドドライバーとして契約するに至った。モスは期待に応え、F1でもファンジオに近い位置を走り、ナンバー2としての役目を果たした。 モスの加入後、1955年6月に開催されたル・マン24時間レースでおきた事故はジャガーのマイク・ホーソーンと絡んで起きたものであるため、事故後、イギリスではメルセデスチームへの風当たりが強くなっていたが、イギリス人のモスの存在はチームにとって大きな助けとなった。
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