ピエール・ベールの寛容論
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ピエール・ベールの寛容論」の解説
上述したように、フランスでは「太陽王」ルイ14世がガリカニスムにもとづいて1685年にナント勅令を廃棄してプロテスタント信仰を禁ずると、50万人ともいわれるカルヴァン派(ユグノー)が国外へ逃れ、そこでは宗教的寛容や信教の自由をめぐる議論が活発化した。オランダのロッテルダムに亡命したカルヴァン派のピエール・ベールはフォンテーヌブロー勅令の直後、『〈強いて入らしめよ〉というイエス・キリストの御言葉に関する哲学的注解』を刊行し、「迷える良心」は人間の自由の表現であるとして、信仰の強制や宗教的迫害を正当化するガリカニスムを批判した。しかし、ベールはカトリック教徒を装って偽名で小冊子『亡命者への忠告』を発表し、年来の同僚であり論争相手でもある王権打倒を唱えるプロテスタント強硬派のピエール・ジュリュー(フランス語版)を批判している。ベールは、ジュリューの千年王国説的な予言は当たらなかったうえ、無政府状態や共和主義は深刻な災いをもたらすと批判し、ユグノーは自分たちのために寛容を要求するが、カトリックに対して信仰の自由を認めないのかと疑問を発し、改革派への反省を促した。ベールは、自らの肉親もフランス国内で迫害されている現実を見すえながら、迷信の打破に努めて宗教と道徳の分離を図った。ベールの代表的著作『歴史的批評的辞典(フランス語版) 』(1697年)では、歴史、道徳、科学、神学にかかわる無数の問題に対する疑念やジレンマが強調され、従来の権威にゆさぶりをかけている。懐疑主義をものごとを考察する基本とした『歴史的批評的辞典』は、ベールの死後も次々と版を重ねて18世紀前半までに9版まで刊行された。特にフランスでは新思想を求める読者に競うように読まれ、英語やドイツ語による全訳版も出版されて影響は全ヨーロッパにおよび、18世紀の啓蒙思想に多大な影響を与えた。この書を「啓蒙思想の宝庫」と評したヴォルテールは宗教におけるあらゆる束縛を拒否する革新的な思想家であり、無神論もまた社会的紐帯の妨げにならないとする普遍的寛容を主張したのである。
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