ピアノ協奏曲第1番ヘ長調
英語表記/番号 | 出版情報 | |
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モシェレス:ピアノ協奏曲 第1番 ヘ長調 | Konzert für Klavier und Orchester Nr.1 Op.45 | 作曲年: 1819年 |
フレンニコフ:ピアノ協奏曲 第1番 ヘ長調 | Concerto for piano and orchestra No.1 Op.1 | 作曲年: 1932-33年 |
メノッティ:ピアノ協奏曲 第1番 ヘ長調 | Piano concerto No.1 | 作曲年: 1945年 |
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第1番 ヘ長調
英語表記/番号 | 出版情報 | |
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モーツァルト:ピアノ協奏曲 第1番 ヘ長調 | Konzert für Klavier und Orchester Nr.1 F-Dur K.37 | 作曲年: 1767年 |
楽章・曲名 | 演奏時間 | 譜例![]() |
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1 | 第1楽章 Mov.1 Allegro | 5分00秒 | No Image |
2 | 第2楽章 Mov.2 Andante | 5分00秒 | No Image |
3 | 第3楽章 Mov.3 Allegro | 5分00秒 | No Image |
作品解説
モーツァルトのオリジナルなピアノ協奏曲は第5番からであり、1767年、11歳のときに生み出された第1~4番のピアノ協奏曲は、他人のピアノ・ソナタの編曲である。原曲は主にパリで活躍していたドイツ系作曲家のものであり、旅行中の交流によって、モーツァルトに強い影響を与えた。父レオポルトは彼らの作品の楽譜を持ち帰り、息子に協奏曲の作曲を練習させたのだろう。自筆譜には、父親の筆跡も残っている。
当時のパリはヨーロッパにおける文化的中心地であった。1760年代、各地を訪れていたモーツァルト父子がパリに滞在したのは63年11月からの5ヵ月間と66年5月からの2ヶ月間である。2度のパリ訪問を含むこの西方旅行によって、少年モーツァルトはさまざまな音楽を吸収し、作曲の幅も広げることになった。4曲のピアノ協奏曲はその成果のひとつといえよう。
各楽章の原曲は以下のとおり。
第1楽章=H. F. ラウパッハ、作品1-5(第1楽章)
第2楽章=不明
第3楽章=L. ホーナウアー、作品2-3(第1楽章)
ヘルマン・フリードリヒ・ラウパッハ(1728-78)は北ドイツに生まれ、サンクト・ペテルブルクで活躍した音楽家。モーツァルトと出会ったのは、ちょうどロシアを出てパリに来ていた1766年と思われる。レオンツィオ・ホナウアー(c1730-c90)はパリで活躍し、高い評価を受けていたドイツ人音楽家である。
「ピアノ協奏曲 第1番 ヘ長調」の例文・使い方・用例・文例
- ピアノ協奏曲
- その曲はピアノ協奏曲に編集された。
- 6月21日の本選で,上原さんはチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」とラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を演奏した。
- そのとき,彼女は偶然,ラヴェルのピアノ協奏曲を聞き,自分と千秋(玉(たま)木(き)宏(ひろし))が舞台でその曲を一緒に演奏している姿を想像する。
- 千秋は彼女がショパンのピアノ協奏曲を演奏するのを見るためにはるばるプラハまで行く。
- 内田さんはクリーブランド管弦楽団と共演したモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏で最優秀器楽ソリスト演奏(オーケストラとの共演)賞を受賞した。
- 浅田選手は,ショートプログラムではショパンのノクターンのうちの1曲,フリーではラフマニノフのピアノ協奏曲第2番に合わせて演技すると述べた。
- フリーについて,浅田選手は「私はラフマニノフのピアノ協奏曲がとても好きです。」と述べた。
- 翌日のフリーでは浅田選手はラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」に合わせて滑った。
- 11月の第1番目の酉の日
- 文章の大きな段落の第1番目
- 等級などの第1番目
- 甲という,日時や方角を表す干支で,十干の第1番目
- 成績が第1番の席次
- 組織や集団の中で第1番の地位
- ヘ長調
- ヘ長調[短調].
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