パンと薔薇のストライキ、1912年
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「ローレンス (マサチューセッツ州)」の記事における「パンと薔薇のストライキ、1912年」の解説
工場での労働条件は危険なものであり、1860年にはペンバートン工場が崩壊して、労働者145人が死んだ。19世紀の半ばから終盤にかけて、移民がアメリカ合衆国に溢れ、ローレンスの住民はヨーロッパのほとんどあらゆる国からの熟練、非熟練労働者でいっぱいになった。アイルランド、フランス、イタリア、ドイツ、ベルギー、ポーランド、リトアニアからの移民が多く、カナダのケベック州、ニューブランズウィック州、プリンスエドワードアイランド州からはフランス系カナダ人が移ってきた。ニューイングランド中から農園の少女も移ってきた。ローレンスはその存在初期から移民都市として知られ、地理的に小さい(6平方マイル [15.5/km²] に満たない)のに、人口一人当たりに多くの国の移民が来ていることでは、世界の同様な都市のどこにも負けない、と豪語することができた。 ローレンスは、アメリカ史の中でも重要な労働争議である「パンと薔薇のストライキ」、別名ローレンス繊維ストライキの舞台になった。1912年、マサチューセッツ州法によって労働時間を週56時間から54時間に減らし、それによって数多い女性や子供労働者の賃金も減らした。当時の平均的な労働者は週給7ドルを稼ぎ、月極め家賃に同額を払っていた。1月11日、工場労働者が給与を減らされたのがわかり、ストライキを実行した。25,000人の労働者のうち、ストライキに入った1,000人足らずが労働組合に入っていた。世界産業労働組合がストライキの指導を行い、参加者には食料や衣類を提供した。マサチューセッツ州軍、民警、市警がストライキに対抗し、ストライキは2か月間続いた。危険な状態になっていたので、小さな子供たちは保護のために市外に送られた 。警官、州兵とストライキ参加者との間に多くの小競り合いがあったが、両側合わせて2人が死亡し、比較的少数の者が負傷しただけだった。ダイナマイトが見つかり、新聞は当初ストライキ参加者に批判的だったが、土地の斡旋人であるジョン・ブリーンが逮捕され告発されると、組合の信用を落とすために工場長がブリーンに500ドルを渡してダイナマイトを持ち込むよう依頼したことを認めた。移民集団は通常、高い賃金を得るために結束した別の集団を信用していなかった。警官と州兵が女性と子供の集団を襲ったとき、大衆が抗議して工場所有者が降参するよう強いた。ストライキ参加者は自分達ばかりでなくニューイングランド中数千の労働者のために賃金増額を獲得した。このストライキに関わった大きな会社の1つがアメリカ毛織物会社であり、繊維産業の中で叩き上げてきたポルトガル系移民ウィリアム・マディソン・ウッドの息子が経営していた。
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