パリ・オペラ座へ、そして流浪の日々
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「オリガ・スペシフツェワ」の記事における「パリ・オペラ座へ、そして流浪の日々」の解説
スペシフツェワは1923年にカプルーンの手引きによって母とともにフランスに出国した。1924年、パリ・オペラ座バレエ団の招へいを受けてロシアを完全に離れる決意を固めた。パリ・オペラ座の『ジゼル』復活公演で称賛され、1932年まで断続的ではあったがエトワールとして出演を続けた。パリ・オペラ座に籍を置きながらもロンドンやブエノスアイレスなどで舞台に立ち、1926年にバレエ・リュスに客演することになった。バレエ・リュスでは、セルジュ・リファールを相手役として『火の鳥』や『白鳥の湖』を踊り、1927年にはジョージ・バランシン振付の『牝猫』のタイトル・ロールを創造した。イソップの寓話を原作とするこの作品はスペシフツェワを売り出すために作られたものであったが、彼女が足を怪我したこともあって代役でタイトル・ロールを踊ったアリス・ニキーチナが好評を博してスターの座についた。ディアギレフはロシアからカシアン・ゴレイゾフスキーを招いて『ジゼル』をスペシフツェワのために新たに上演する計画を立てていたという。しかしディアギレフは1929年に急死し、この計画は実現しなかった。 パリ・オペラ座で『プロメテウスの創造物』に出演したとき、スペシフツェワは以前アメリカで受けたものと同様の屈辱的な扱いを受けることになった。この作品の振付を担当していたバランシンが中途で病に倒れたため、リファールが引き継いで作品を完成にこぎつけた。リファールは作品をスペシフツェワではなく自分中心のものに作り替えたため、彼女は脇役に押しやられた。1932年の『ジゼル』再演でも同様であった。リファールはアルブレヒトの役に新たな解釈を加え、ヒロインと同様の重要性を与えた。リファールのこの解釈は伝統との決別を意味すると同時に、新たな劇的意味を持たせて高い評価を受けた。これらの事例は19世紀的バレエ(クラシック・バレエやロマンティック・バレエ)の舞台ではバレリーナが常に舞台の中心に存在していたのに対し、20世紀のバレエ・リュスではニジンスキーやリファールなどの男性が舞台の中央に立っていたことによるもので、典型的な古典バレリーナのスペシフツェワはバレエ・リュスの精神とは相容れない部分があり、そこに彼女の悲劇の一端があった。 スペシフツェワは苛立ちを隠さなくなり、ついにはリハーサルの最中に窓から投身を図るまでになった。同年、スペシフツェワはパリ・オペラ座バレエ団を永久に去って世界各地の舞台に立った。パリ・オペラ座退団前の1923年と1931年にブエノスアイレスのテアトロ・コロンで踊り、1932年にはロンドンのカマルゴ協会で『白鳥の湖』第2幕や『ジゼル』を踊った。1934年、ヴィクトル・ダンドレ(1870年 - 1944年、ロシア生まれのバレエ興行師で、アンナ・パヴロワの内縁の夫であった)が結成した「バレエ・リュス・クラシック」という小規模なバレエ団のバレリーナとなり、オーストラリアを巡演した。オーストラリアの舞台では『レ・シルフィード』、『カルナヴァル』、『白鳥の湖』第2幕、『ライモンダ』のグラン・パなどを踊って称賛を受けた。このときのカーテン・コールは数えきれないほどで、試しに次の曲目の際に数えてみたところ、17回だったという。
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