パッラーディオ風窓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 19:37 UTC 版)
「パッラーディオ建築」の記事における「パッラーディオ風窓」の解説
パッラーディオ風、セルリオ風、あるいはヴェネツィア風窓は大半がパッラーディオの作品であり、その初期経歴のほとんどトレードマークと言っていいものである。中央の窓は半円のアーチが載り、小さなエンタブラチュアで構成されるインポストの上に乗り、その下には他に2つの窓を囲んで、両横に1つずつ付柱がある。ヤーコポ・サンソヴィーノ(1486年-1570年)はヴェネツィアの図書館で2本の内部付柱の代わりに柱を立てる設計を行った。その起源をパッラーディオであるかヴェネツィアであるかを言うのは正確ではない。そのモチーフはドナト・ブラマンテ(1444年-1514年)が初めて使い、後にセバスティアーノ・セルリオ(1475年-1554年)がその7巻本の建築書『建築七書』に言及し、ウィトルウィウスやローマ建築の概念を詳述している。このアーチのある窓は、下の2つの矩形開口部が横に来ている。このモティーフは古代ローマの凱旋門に最初に現れていた。パッラーディオはこのモティーフを広く用いており、中でもヴィチェンツァのバシリカ・パッラディアーナが著名である。ヴィラ・ゴディやヴィラ・フォルニ・チェラートの玄関にも使われている。この窓にヴェネシアン・ウィンドウという別名を与えたのは、恐らくヴェネト州でこのモティーフを多用したからである。セルリオ・ウィンドウとも呼ばれる。その名前や起源が何であれ、この窓の形態は恐らく、パッラーディオ主義から変遷して行った後の建築様式で見られる最も長続きするパッラーディオの作品の1つとなっている。イギリスの作家ジェイムズ・リーズ=ミルン(1908年-1997年)は、それがイギリスで初めて現れたのはロンドンのバーリントン・ハウスの改修されたウィングで、その直接の発想は、パッラーディオ自身からというよりも、ホワイトホール宮殿のためにイニゴー・ジョーンズ(1573年 -1652年)が行ったデザインからである、としている。 このモティーフが浮き出されたブラインドアーチに囲まれてモティーフと一体になっている変化形はパッラーディオのものではないが、バーリントンはパッラーディオのデザインだと考えたように思われる。平面壁にそのようなモティーフを3つ使った彼の絵を使っていた(右上のクレイドンハウスの写真を参照)。現代の学者はその絵が、ヴィンチェンツォ・スカモッツィ(1548年-1616年)のものだとしている。1712年、バーリントンはそのモティーフを、義兄弟のブルース卿 (第3代アイリスバリー伯爵チャールズ・ブルース、1682年-1747年) のためにシバーネイク森のトッテナム・パーク立面に適用した(その後改築された)。ウィリアム・ケント(1685年-1748年)はそれを国会議事堂のデザインに取り入れ、ホウカム・ホールの北正面に適用したデザインにも表れている。このモティーフの変化形は、1760年代後半から新古典主義建築でも広範に利用され続けた。
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