ハイパーインフレーションへと発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 03:54 UTC 版)
「ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション」の記事における「ハイパーインフレーションへと発展」の解説
「ルール占領」および「ドーズ案」も参照 ドイツの賠償金支払い困難に対する連合国の意見は一致しなかったが、ドイツに対しもっとも強硬な態度を取るフランスは、ベルギーとともに1923年1月11日にドイツの主要な工業地帯であるルール地方を占領した(ルール占領)。ドイツはこれに厳重に抗議し、一切の賠償の支払いも石炭の提供も拒否して抵抗した。イギリスやアメリカも、ドイツのインフレーションを加速させ革命の危機を招くとして、ルール占領には批判的であった。 ドイツ政府のルール占領に対する反応は、いかなる形であれ占領者を支援することになる業務を何もしないようにルール地方の労働者に対して消極的抵抗(英語版)の方針を指示することであった。この方針は実質的に占領に抗議するゼネラル・ストライキを意味したが、ストライキ中の労働者に対して経済的な支援を行う必要があった。政府はさらに紙幣を増刷することで労働者に対して支援を支払ったが、これによりドイツ中がさらに紙幣で溢れかえることになり、ハイパーインフレーションをさらに悪化させていった。1923年11月には、1米ドルは4兆2105億マルクに達していた。 ドイツの民衆は、現金を受け取ると減価してしまうのを避けるためにできるだけ早く使ってしまおうとした。このため貨幣の流通速度が異常に増大した。絶えず紙幣が減価していくので、額面の大きな新しい紙幣を常に作っていかなければならず、紙幣の印刷が大問題になった。帝国印刷局には7,500人以上の職員が紙幣製造のためだけに働き、84の直属印刷工場と60の補助印刷所が紙幣を印刷し、そのための紙は30以上の製紙工場でフル操業で生産されていた。 また米ドル、イギリスポンド、スイスフランなどの外貨がドイツ国内で幅広く使われるようになり、国内にある外貨の価値は流通しているマルクの価値の10倍にもなったという。さらに、財務大臣の認可の下に地方自治体や企業に発行が認められていた緊急通貨ノートゲルトは、この時期になると非合法に財務大臣の認可を得ずに発行されるものが増えていった。1923年末におけるノートゲルトの総額は、同時期のマルク紙幣の2倍にも達していた。ノートゲルトによる取引は日常化し、誰もが勝手に発行する紙幣により「私人によるインフレーション」が進展していった。 こうした消極的抵抗と占領によるルール地方の封鎖はドイツ経済に甚大な打撃を与えたこともあり、9月27日に至りドイツ政府は消極的抵抗を中止した。一方ルール地方を占領しても見込んだ経済的成果を得られなかったフランスはようやく妥協的となり、11月30日に賠償委員会で再度の賠償の協議を開始した。1924年8月30日に新たに締結されたロンドン協定はドーズ案と呼ばれ、ドイツの賠償負担を大きく軽減するとともにドイツのインフレーションや財政均衡に配慮した支払方式となった。ドーズ案成立によりフランスはルール占領を中止し軍隊を撤収させた。 アーヘンで1923年に発行された5万マルクノートゲルト ライプツィヒで1923年に発行された50万マルクノートゲルト ヴェストファーレンで1923年に発行された500万マルク硬貨 ダンツィヒで1923年に発行された500万マルクノートゲルト トリーアで1923年に発行された5000万マルクノートゲルト ドレスデンで1923年に発行された5億マルクノートゲルト ベルリンで1923年に発行された50億マルクノートゲルト プラウエンで1923年に発行された500億マルクノートゲルト ベルリンで1923年に発行された5000億マルクノートゲルト シュトゥットガルトで1923年に発行された5兆マルクノートゲルト エシュヴァイラーで1923年に発行された50兆マルクノートゲルト
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