ノーベル賞とその死
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「アルベール・カミュ」の記事における「ノーベル賞とその死」の解説
1956年、現代人の二重性と罪の意識をテーマにした中編『転落』を発表、翌年6篇からなる短編集『追放と王国』を発表した。同年、彼の「この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して」ノーベル文学賞が贈られた。当時カミュは43歳であり、これは戦後では最年少の受賞である(史上最年少はラドヤード・キプリング)。しかしアルジェリア戦争をめぐる政治的態度やサルトルとの論争で左右両翼やアラブ人からも非難を浴びていたカミュへの授賞に対し、当時のフランスは冷淡だった。 受賞後、カミュはプロヴァンス地方の田園地帯ルールマランに家を構え、しばしばパリとの間を往復する生活を送っていた。1960年、友人ミシェル・ガリマール(ガストン・ガリマールの甥)が運転する自動車(ファセル・ヴェガ)でパリに向かう途中、ヨンヌ県ヴィルブルヴァン(フランス語版)において立ち木に衝突、助手席のカミュは即死、ガリマールも手術中に死亡した。しかし、後部座席に同乗していたガリマールの妻子は怪我だけで済んだ。当時の報道では、スピード超過(時速約180km)や、運転していたガリマールのてんかんの発作(走行中の並木模様によって引き起こされたとされる)、それにいっそう可能性が高いものとしてタイヤのパンクが指摘されているが、イタリアの大学人であるジョヴァンニ・カテッリ(Giovanni Catelli)は、2011年に『コリエーレ・デラ・セラ』で「KGBによって暗殺された」という説を発表した。これは、カミュが『Franc-Tireurs』紙(1957年3月)で発表した記事において、1956年のソ連軍によるハンガリー動乱弾圧で、ソ連外相ドミトリー・シェピーロフを非難したことから、シュピーロフがKGBに暗殺指令を出したというものである。作家のルネ・エチアンブルは「ずっと調査してきて、このファセル・ヴェガが棺であったという証拠を握っているが、私の記事を公表したいという新聞は探したものの見つからなかった」と発言している。 執筆中であった自伝的小説『最初の人間』は未完となった。
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