ニューヨークファミリーの頂点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 14:06 UTC 版)
「カルロ・ガンビーノ」の記事における「ニューヨークファミリーの頂点」の解説
1955年から1965年の間、労働コンサルタント事務所に籍を置いた(ガンビーノが隠れオーナーの1人と発覚すると事務所は閉鎖された)。1966年9月、クイーンズのレストランLa Stellaで開かれたコミッションが警察に探知され、出席していたマフィア全員が拘束された。ガンビーノ以下、マイク・ミランダ、トーマス・エボリ、アニエロ・デラクローチェ、ジョゼフ・コロンボ、カルロス・マルセロ、サント・トラフィカンテ(ジュニア)らが集まっていた。1968年7月、アンジェロ・ブルーノ、コロンボ、トーマス・マソット(サルヴァトーレの息子)、ヴィンセント・アロなどと食事会議を開き、警察に一時拘束された。1970年3月、妻と街を歩いている時警察に拿捕され、現金輸送車300万ドル強奪事件の首謀者として起訴されたが病気により審理猶予となった。1967年に密入国を理由に国外追放宣告を受け、裁判で争っていたが、1971年11月病気などの理由で無期限の滞在を許された。 1960年代から1970年代にかけてファミリーは拡大を続け、ガンビーノの裏社会における影響力はピークに達した。1967年病死したルッケーゼの後継ぎに傀儡カーマイン・トラムンティを据え、ルッケーゼ一家も支配下に置いた。ルッケーゼの縄張りだったチームスターの組合支部ローカル295を受け継ぎ、マンハッタンのガーメント地区に地盤を固めた。ジェノヴェーゼ一家については、ジェノヴェーゼの死後ボス代行となっていたトーマス・エボリを1972年に暗殺し、後釜に盟友のフランク・ティエリを据えた。 コロンボがイタリア系アメリカ人公民権同盟を組織して政治運動を始め、当初は目立たなかったが、運動が巨大化し世間の注目を浴びるとマフィア勢から顰蹙を買い、ガンビーノも派手な行動を控えるよう警告したとされるが、コロンボは運動の成功に気をよくして雑誌やTVを通じて政治家のように振る舞いだした。1971年6月28日、コロンバスサークルでの大集会でコロンボは写真ジャーナリストを装った黒人に狙撃された(一命を取り留めたが重度の脳性まひで病院から出られないまま1978年に死亡)。黒人は狙撃直後コロンボのボディーガードに取り押さえられている時に群衆の中から突然現れた男に背後から射殺された(男は逃亡)。警察やFBIは、黒人がガンビーノ一家関係者とつながりがあったことを突き止め、ガンビーノ一家の動きを監視したが、ガンビーノ自身も警察やFBIにマークされ尋問された。その後コロンボ一家はギャロ派と再び抗争状態に入るが、一説に、ガンビーノは当時出所したばかりのジョーイ・ギャロにコロンボ襲撃の罪を被せてコロンボ派と戦わせた。
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