ドラフト制度とサラリー高騰
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「1971-1972シーズンのNBA」の記事における「ドラフト制度とサラリー高騰」の解説
ドラフトではオースティン・カーが、クリーブランド・キャバリアーズから全体1位指名を受けた。またシドニー・ウィックス、フレッド・ブラウン、スペンサー・ヘイウッド、カーティス・ロウ、ジム・クリーモンズらが指名を受けている。 この年のドラフトから新たにハードシップ制度が導入された。これは経済的な理由でプロ選手になる必要があることを証明された大学生選手は、大学でのプレイ資格を終了していなくてもドラフトにエントリーできるというものである。それまでNBAは大学でのプレイ資格を終了していない選手のドラフトエントリーや、チームが大学生選手と契約することを禁じていた。しかし当時デトロイト大学の1年生だったスペンサー・ヘイウッドが、家族のローンを返済するためにプロ選手になれるよう規則を変更すべきと訴訟を起こした。最高裁判所の判決はヘイウッドに軍配が挙がり、NBAはアーリーエントリーを認めるハードシップ制度の導入に踏み切ったのである。ドラフトエントリー規制緩和の背景にはABAの存在もあった。ABAでは早い段階から優秀な選手を確保するべく青田買いが横行し、大学生のみならず高校生選手も指名していた。NBAはABAのなりふり構わぬ選手獲得策に対抗する必要があった。ハードシップ制度は1976年にアーリーエントリー制度に姿を変える。 NBAとABAとの間では協定が結ばれていなかったため、ドラフトでは同じ選手が両リーグから指名された。指名された選手はより好条件を示すチームに流れるため、新人選手の契約金は跳ね上がった。また選手の引き抜き合戦もいよいよ過熱化し、さらに1964年のオールスターボイコットの件で強権を得たNBPA(選手会)がリーグとの労使交渉を押し進めたため、選手のサラリーは異常な高騰を見せた。NBAの平均サラリーは1967年の25000ドルから1971年の40000ドルと、60%も跳ね上がったのである。 1960年代後半はリーグ全体が好景気に沸いておりサラリーの高騰にも対応できていたが、1970年代に入ると観客動員数の伸びが一気に失速し、さらにテレビ視聴率も低迷する。収益が増えないなかで選手のサラリーは上昇する一方なので、リーグには赤字経営に陥るチームが続出していく。 サラリーの高騰に最初に悲鳴をあげたのはまだ歴史が浅く、財政基盤が脆弱なABAの方だった。前年1970年には創設3年目にして早くもNBAとの合併案が持ち上がり、両者はNBAによるABAの吸収で合意に至ったが、これに待ったを掛けたのが1964年のオールスター決起以来急速に力を着けて来たNBPA(選手会)である。1966年にアメリカンフットボールリーグのNFLとAFLが合併した際、選手のサラリーが大幅に減少した。NBPAはNBAでも同じことが起きるのではないかと危惧したのである。NBPAはNBAとABAの合併を阻止するため集団訴訟を起こしたが、1975年には合併を認めるに至る。
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