ドラフト制度とサラリー高騰とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ドラフト制度とサラリー高騰の意味・解説 

ドラフト制度とサラリー高騰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 02:47 UTC 版)

1971-1972シーズンのNBA」の記事における「ドラフト制度とサラリー高騰」の解説

ドラフトではオースティン・カーが、クリーブランド・キャバリアーズから全体1位指名受けた。またシドニー・ウィックスフレッド・ブラウンスペンサー・ヘイウッドカーティス・ロウジム・クリーモンズらが指名受けている。 この年ドラフトから新たにハードシップ制度導入された。これは経済的な理由プロ選手になる必要があることを証明され大学生選手は、大学でのプレイ資格終了していなくてもドラフトエントリーできるというものであるそれまでNBA大学でのプレイ資格終了していない選手のドラフトエントリーや、チーム大学生選手契約することを禁じていた。しかし当時デトロイト大学1年生だったスペンサー・ヘイウッドが、家族ローン返済するためにプロ選手になれるよう規則変更すべきと訴訟起こした最高裁判所の判決ヘイウッド軍配挙がりNBAアーリーエントリー認めるハードシップ制度の導入踏み切ったのである。ドラフトエントリー規制緩和背景にはABAの存在もあった。ABAでは早い段階から優秀な選手確保するべく青田買い横行し大学生のみならず高校生選手指名していた。NBAはABAのなりふり構わぬ選手獲得策に対抗する必要があった。ハードシップ制度1976年アーリーエントリー制度に姿を変えるNBAとABAとの間では協定結ばれていなかったため、ドラフトでは同じ選手が両リーグから指名された。指名され選手はより好条件を示すチーム流れるため、新人選手契約金跳ね上がった。また選手引き抜き合戦もいよいよ過熱化し、さらに1964年のオールスターボイコットの件で強権得たNBPA選手会)がリーグとの労使交渉押し進めたため、選手サラリー異常な高騰見せたNBA平均サラリー1967年の25000ドルから1971年40000ドルと、60%も跳ね上がったのである1960年代後半リーグ全体好景気沸いておりサラリー高騰にも対応できていたが、1970年代に入ると観客動員数伸び一気失速し、さらにテレビ視聴率低迷する収益増えないなかで選手サラリー上昇する一方なので、リーグには赤字経営陥るチーム続出していく。 サラリー高騰最初に悲鳴をあげたのはまだ歴史浅く財政基盤脆弱なABAの方だった前年1970年には創設3年目にして早くもNBAとの合併案が持ち上がり両者NBAによるABAの吸収合意至ったが、これに待った掛けたのが1964年オールスター決起以来急速に力を着けて来たNBPA選手会)である。1966年アメリカンフットボールリーグNFLAFL合併した際、選手サラリー大幅に減少したNBPANBAでも同じことが起きるのではないか危惧したのであるNBPANBAとABAの合併阻止するため集団訴訟起こしたが、1975年には合併認めるに至る。

※この「ドラフト制度とサラリー高騰」の解説は、「1971-1972シーズンのNBA」の解説の一部です。
「ドラフト制度とサラリー高騰」を含む「1971-1972シーズンのNBA」の記事については、「1971-1972シーズンのNBA」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ドラフト制度とサラリー高騰」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ドラフト制度とサラリー高騰」の関連用語

ドラフト制度とサラリー高騰のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ドラフト制度とサラリー高騰のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの1971-1972シーズンのNBA (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS