ドラフト会議直前まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 20:56 UTC 版)
早実高に合格し学校近くにある荒川家に下宿。そこには毎日のように王貞治が来て素振りをしていた。1年生のときからレギュラーとなったが上級生から苛烈なシゴキに遭い、「何度も逃げ帰ろうと思ったが反対を押し切った末とあっては出来ず毎晩布団を口にくわえて泣いていた(本人談)」ほど辛酸をなめていたという。2年の時に養子縁組をして荒川姓となる。 1964年、2年生の時(当時は出澤姓)に遊撃手、三番打者として全国高等学校野球選手権東京大会決勝に進出するが、修徳のエース成田文男に抑えられ敗退。翌1965年夏の都大会準々決勝では萩原康弘、原田治明のいた荏原高に延長15回サヨナラ負け、甲子園には届かなかった。高校の一年上に内田圭一一塁手、同期に大矢明彦捕手がいる。 早稲田大学に進学。1967年、2年生の時に東京六大学野球春季リーグ戦で遊撃手、一番打者として初めて先発出場。同季の対立教大学1回戦では3打席連続本塁打を放った。1試合3打席連続、3本塁打はいずれも史上初であり、「長嶋二世現る」と騒がれた。同年の第7回アジア野球選手権大会日本代表に選出されている。翌1968年秋季リーグでは田淵幸一らのいた法大に競り勝ち優勝。リーグ通算71試合出場、268打数90安打、打率.336、19本塁打(リーグ記録4位タイ)、43打点。ベストナインに4回選出される。この頃は一本足打法だった。 早稲田大学ではクリーンアップを打った同期の谷沢健一と二人で「早稲田のON砲」と呼ばれ、1960年代後半の早稲田大学野球部を牽引する。荒川について谷沢は「人にまねのできない、天性のバネがある」と評価していた。谷沢以外の大学同期に小坂敏彦・阿野鉱二・小田義人などがおり、計7人がプロ入りしている。
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