ドラフト会議と荒川事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 20:56 UTC 版)
養父の荒川博が巨人のコーチ、また東京六大学野球の常打ち球場明治神宮野球場を本拠地にしている球団がアトムズ(1970年からヤクルトアトムズ)という事もあり、ドラフト会議の前から荒川は「巨人・アトムズ以外お断り」と明言していた。 だが、11月20日の1969年のドラフト会議では指名順が3番目だった大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)が1位指名。大洋はもともと荒川を指名する予定はなかったとされるが、球団代表の森茂雄が元早稲田大学野球部の監督で、当時の早大監督・石井藤吉郎や荒川博はその教え子だったことから、そのラインでの切り崩しを狙っていたといわれる。大洋側の猛アタックに、博は多少大洋入りに傾いたともされるが、尭の拒否の決意は固く、12月15日になって大洋側は交渉の一時打ち切り宣言を行った。荒川側が拒否を貫く中、大洋ファンからは脅迫電話や嫌がらせを受ける。年の明けた1970年1月5日夜、自宅付近を犬を連れて散歩中に、熱狂的な大洋ファンと思しき二人組の暴漢に襲われた。棍棒状の凶器(一説には野球用バットと言われる)で殴打され緊急入院。診断の結果、右後頭部および左手中指に亀裂骨折。この事件は荒川事件と呼ばれ、事件の後遺症によってその後の選手生命にまで影響が出た。 事件後の2月上旬に、大洋側は契約して2年間プレーすれば必ず巨人にトレードする、との期限付き三角トレード案を打診する。しかし、荒川側はこれを拒否し、2月中旬にアメリカに野球留学する。これまで、ドラフト指名を拒否して社会人野球へ進むケースはあったが、完全な野球浪人は荒川が初めてであった。アメリカに渡るもあてがあったわけではなく、カリフォルニア・エンゼルスやサンフランシスコ・ジャイアンツのマイナーの練習参加を断られ、ようやくロサンゼルス・ドジャースのマイナーの練習参加を許される。ロサンゼルスでは、大洋漁業の現地法人に出向していた新治伸治が荒川に接触し、入団を要請したが、意志は変わらなかった。7月中旬に荒川は帰国すると、同月25日に母親とともに大洋オーナーの中部謙吉を訪れている。大洋も巨人・ヤクルトと秘密裏に交渉していたが、ヤクルトと交渉がまとまり、大洋側がヤクルトへの移籍を前提とした契約を荒川側に持ちかける。次のドラフトで巨人かヤクルトに行ける保証はないと考えた荒川側はこれを受け入れ、同年10月7日に大洋と契約。前年度ドラフト指名選手の登録期限であった9日に荒川と大洋の契約が発表されるが、すぐにマスコミによって荒川・大洋・ヤクルトの密約説を書き立てられてしまう。14日に密約説を心配したセ・リーグ会長の鈴木龍二は、大洋に対して荒川に大洋のユニフォームを着せて練習に参加させるように要望書を出す。これを受けて、19日に荒川は背番号3のユニフォームを着て大洋の秋季練習に参加した。11月7日に行われたプロ野球実行委員会の席上でコミッショナー委員長の宮沢俊義は「制度というのは、その精神を理解してこそ意味がある」とドラフト精神論を述べて、三角トレードをしないように言外ににおわせた。しかし、その後大洋とヤクルトの間で交渉は煮詰められ、12月26日にヤクルトへの移籍が発表された。
※この「ドラフト会議と荒川事件」の解説は、「荒川尭」の解説の一部です。
「ドラフト会議と荒川事件」を含む「荒川尭」の記事については、「荒川尭」の概要を参照ください。
- ドラフト会議と荒川事件のページへのリンク