ドラフトへの道のり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:03 UTC 版)
「ケビン・ガーネット」の記事における「ドラフトへの道のり」の解説
当初ガーネットは大学への進学を目指していた。当時NBA入りするには名門大学で活躍することでNBAスカウトからの注目を集めた上でNBAドラフトで指名されることが、ほとんど唯一の道と思われていたからである。しかしファラガット高校でガーネットはGPAでは3.8を取得していたが、一方でACT(アメリカ大学進学適性テスト)はパスしておらず、このことは彼がNCAAでプレーできるかについて疑問を投げ掛けた。ガーネットは受験対策のために設けられた特別クラスに編入していたが、ACTでは必要な17点を得ることができなかった。大学進学への道には霧が立ちこめる中、バスケット選手としての評価は上がる一方のガーネットには、大学よりも高校卒業後すぐにNBA入りする方がよりスマートな方法に思えるようになった。1995年4月、ガーネットは高校オールスターゲームであるマクドナルド・オールアメリカンゲームに参加するためにセントルイスに居た。ここで当時ガーネットと同じく高校スター選手だったヴィンス・カーター、シャリーフ・アブドゥル・ラヒーム、そしてステフォン・マーブリーと出会うが、マーブリーとは特に親しい関係を築き、この夏には彼と引っ切り無しに電話をし合ったため、毎月の電話料金は莫大な数字となったという。オールスターゲームでは18得点11リバウンド3ブロックをあげてチームを126-115の勝利に導き、自身はMVPを受賞。さらにUSAトゥデイ紙がその年の全米年間最優秀選手にガーネットを選んだことで、かねてからあったガーネットが高校卒業後直接NBA入りするのではないかという推測が勢いづき、また専門家たちはもしガーネットがドラフトにエントリーすれば1巡目で指名されるだろうと予測した。そして彼らの多くは1974年に19歳の若さでアメリカン・バスケットボール・アソシエーション (1967-1976年)のユタ・スターズに入団した往年の名選手、モーゼス・マローンと比較した。 そしてガーネットは1995年のNBAドラフトへのエントリーを決意する。ガーネットと同じように高校卒業後すぐにNBAでドラフト指名されたのはダレル・ドーキンスとビル・ウィロウビーが指名された1974年のNBAドラフトが最後であり、それから実に20年以上も後のことである。つまり当時のNBAには高校卒業直後の選手がプロの世界で通用するかについてのサンプルが無く、ガーネットは1995年ドラフトの不確定要素となった。ドラフト候補生の中にはカレッジバスケで活躍したジョー・スミスやアントニオ・マクダイス、ジェリー・スタックハウス、ラシード・ウォーレスらがおり、より洗練されている彼らを指名する方がNBAチームにとっては安全な選択であった。しかし7フッター(身長213cm)級の長身にガード並みの技術と広い視野を持ち合わせるガーネットには多くの潜在能力が秘めているように見え、NBAスカウト陣にとっても無視できない存在だった。ミネソタ・ティンバーウルブズの新任バスケットボール部門副社長、ケビン・マクヘイルもそんな高校生選手に注目する人物の一人だった。ティンバーウルブズは1989年に誕生して以来、勝率4割を超えたことがない弱小チームであり、前年の1994-95シーズンも21勝61敗と大きく負け越しており、1995年のドラフトでは5位指名権を持っていた。 ドラフト当日の6月28日。ジョー・スミス、アントニオ・マクダイスと、上位指名には予想通りの名前が並ぶ中、候補生の中で一際幼く、細く見えるケビン・ガーネットの名前は5番目に呼ばれた。19歳のNBA選手の誕生であった。その直後、ガーネットは高校時代のコーチから電話でSAT (大学進学適性試験)の成績が970点であったことを知る。それは彼が大学でもプレーできる資格が十分にあったことを意味していた。
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