デビルレイズ〜レイズ時代
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「スコット・カズミアー」の記事における「デビルレイズ〜レイズ時代」の解説
2004年7月30日にビクター・ザンブラーノ、バートロメ・フォーチュナト(英語版)とのトレードで、ホセロ・ディアスと共にタンパベイ・デビルレイズへ移籍した。このときの放出理由の1つには「体格や投球フォームが故障を招きやすい」というものがあった。だがファンや評論家は、メッツ史上最悪のトレードとされる1971年のライアン放出に準えて批判を展開した。移籍後は傘下のAA級モンゴメリー・ビスケッツで3週間プレーした後、8月23日のシアトル・マリナーズ戦で20歳7か月とこの年のメジャー投手全体で最年少、球団投手史上チャド・ゴダーンに次いで2番目の若さでメジャーデビュー。5回を無失点に抑えメジャー初勝利も同時に記録した。 2005年はオールスターまでの前半戦が3勝7敗、防御率4.59に対し、後半戦は7勝2敗、防御率2.79の好成績を記録した。カズミアー本人によると持ち球をストライクゾーンに集められるようになったから安定してきたという。球団新記録、メジャー新人投手最多の174奪三振(リーグ4位)を記録し、奪三振数が被安打数を上回った。規定投球回以上投げたア・リーグの投手の中でこれを達成したのはランディ・ジョンソン、ヨハン・サンタナしかいない。自責点が1点以下の先発試合数が14でヨハン・サンタナ、マーク・バーリーと共にア・リーグ最多となった。その一方で100四球(両リーグ最多)を記録するなど荒れ球で、防御率は3.77を記録した。 2006年は、4月3日のボルチモア・オリオールズ戦で22歳69日で開幕投手となる。これは1985年のドワイト・グッデン(メッツ=当時)以来の若さだった。7月3日のボストン・レッドソックス戦でジョシュ・ベケットに投げ勝ちメジャー初完封を記録した。その後、前半戦だけで10勝を挙げ、125奪三振を記録し、オールスターに選出されたが、左腕の炎症で7月30日に故障者リスト入り。8月11日に復帰したものの、3試合に投げたところで再発し、そのままシーズンを終えた。規定投球回数に満たなかったとはいえ奪三振率は10.14を記録し、この年のアメリカンリーグ奪三振王であるヨハン・サンタナの9.44を上回っていた。 2007年は前半戦不調だったが、後半戦の防御率2.39を上回ったのはリーグでファウスト・カーモナのみで、シーズン通して3.48を記録。投球回数は初めて200の大台に乗り、奪三振数は239とそれぞれ球団記録を更新すると共に奪三振王のタイトルを獲得した。23歳での奪三振王獲得は、ア・リーグ史上8番目の若さであった。奪三振率は前年を上回る10.41を記録したが、エリック・ベダードがそれを上回る10.93を記録したためリーグ2位に終わった。 2008年は左肩痛のため開幕を故障者リスト入りで迎え、シーズン初登板は5月4日となった。5月14日には2009年から3年総額2850万ドルで契約延長した。4年目の2012年はオプションでこれを含めると3950万ドルに達する。5月は5勝1敗・防御率1.22を記録し、初の月間優秀投手に選出された。オールスターに2年ぶりに選出され、勝ち投手となった。課された投球制限に早く達するため、27試合に先発したが、規定投球回に到達せずにシーズンを終えた。
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