デトロイト砦の包囲戦
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「ポンティアック戦争」の記事における「デトロイト砦の包囲戦」の解説
1763年4月27日、ポンティアックはデトロイトの集落から約10マイル (16 km)の場所で部族間協議を開いた(インディアンの社会は合議制である)。ポンティアックは、ネオリンに教えられた聴衆の説得法に従って、オタワ族、オジブワ族、ポタワトミ族、ヒューロン族の多くをデトロイト砦獲得の試みに加わるよう呼びかけた。5月1日、ポンティアックは50名のオタワ族戦士とともに、砦の守備戦力を値踏みするために砦に向かった。フランスの年代記編者によれば、ポンティアックは2回目の部族間協議で次の呼びかけを行ったとされている。 わが兄弟、同士達よ。大切なことは、我々の国を破壊することだけを求める民族を我々の土地から追い出すことだ。我々の同胞であったフランスから得ていたような我々の需要を満たすことは最早不可能になったことは明らかだろう。それ故に兄弟同士達よ、我々は皆敵を打ち崩すことを誓わねばならないし、一時の猶予も許されない。我々を妨げるものはない。守備兵は少ないので我々は目的を達することができる。 ポンティアックたちは急襲によって強固な砦を落とせると期待して、5月7日に武器を隠した約300名の戦士と共にデトロイト砦に入った。しかし、イギリス軍の指揮官もインディアン連合の作戦を熟知しており、武装して攻撃に備えた。インディアンたちは作戦が失敗したことを知ると、簡単な協議後に一旦引き上げ、2日後に砦を包囲した。ポンティアックとその同胞は、砦の外で見つけたイギリス軍兵士や入植者を、女子供をいとわず全て殺害した。ある兵士などは、五大湖地方のインディアン部族の慣習に従って、儀式上の食肉とされた。暴力はイギリス人にのみ向けられ、フランス人入植者は一般に安全であった。最終的に6部族から900名以上の戦士が包囲戦に参加した。 イギリス軍は援軍の到着後に、ポンティアックの宿営地の急襲を試みたが、ポンティアックたちもそれを承知して待ち受けており、7月31日のブラッディランの戦いでイギリス軍を打ち破った。それにも拘わらず、デトロイト砦の状況は手詰まりのままであり、ポンティアックの同胞に対する影響力が薄れていった。インディアン部族の中には包囲を放棄する者が現れ、出発前にイギリス軍と休戦の協定を交わす者もいた。10月31日、ポンティアックはイリノイ郡のフランス人がデトロイト砦を攻める軍に加わることはないと認識し、包囲を解いてモーメー川に移動した。ポンティアックはそこで引き続き、インディアンたちにイギリス軍に対する抵抗を呼びかけ続けた。
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