ティワナクは官僚制国家か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 14:44 UTC 版)
「ティワナク」の記事における「ティワナクは官僚制国家か」の解説
最近では、ティワナク社会を「官僚制を伴う国家」とみなすモデルが提案されている。しかし、考古学的証拠のみから官僚制を推測するのは難しいため、反論も多い。反論としてあげられているモデルでは、「複雑な地縁・血縁組織(アイリュと呼ばれる)が重層化した社会」とみなすものがある。 これらの論争は、アイマラ語でスカ・コリュ(ケチュア語でワル・ワル)と呼ばれる堀を伴った盛り畑農耕の調査とその解釈が発端であった。ここ数十年のチチカカ湖沿岸の考古学は、主にサブシステンスの研究(国家による生産物の流通・管理・分配など政治的な部分も含む広い意味での生業・生計研究)に比重が置かれてきた。1990年代にはいり、さらに異なるテーマからの研究も行われているが、ティワナク研究でも長い間、生業研究に比重が置かれていた。そこで着目されたのが、スカ・コリュであった(詳細は後述)。現代では放棄されたこの農耕に対して、1980年代初頭から復元実験を始め、その単位面積あたりの生産性の高さが注目されていた時期でもあった。 この盛り畑耕法が、ティワナク政体により直接管理されていたのか、それとも、ローカルな地元農民たちの手で管理されていたのか、という遺構に対する解釈から論争は生じ、1980年代後半から2000年ころまで続いた。先にあげたアラン・コラータの官僚モデルでは、ティワナクによるスカ・コリュの直接的な管理運営を主張する。ティワナク遺跡のあるティワナク谷のとなりにあるカタリ盆地に広がる盛り畑や、それに付随する長さ20kmほどの河床を人工的に改変した水利施設は、ティワナク政体の中央から技官が派遣されて作られたものであると言う。その証拠に、カタリ盆地とティワナク谷の水利施設は似たような構造になっていると主張する(前掲書)。また、盛り畑の畝の土中や、放棄後の畝上の覆土から得た炭化物(カタツムリの殻など)を放射性炭素年代測定にかけ、これらの盛り畑がティワナク期に利用されていることを示した。それによれば、ほとんどの炭化物はティワナク期の年代を示している。 これに対し、クラーク・エリクソンは、盛り畑やそれに付随する水利施設、堤防などを、国家による管理に結びつける解釈に疑問を呈した。これらはペルー領での実験によっても数家族で運営ができることが確認されており、国家による管理は必要なかったと述べている。そして、盛り畑や水利施設などは地元民によって管理運営されていたと主張する(前掲書)。さらに、コラータの生産力重視でかつ大規模土木建築重視の理論に対して、ネオ・灌漑理論として批判している。エリクソンも熱ルミネッセンス法で盛り畑の利用年代を調べ、盛り畑と物理的に連なっている住居址から出土した土器から盛り畑の年代を測定している。それによれば、紀元前200年から紀元後200年の間、およびティワナク崩壊後の時期を示すという。しかし、これは盛り畑の畝から出土した土器や炭化物ではないため、コラータは批判をしており、上記で記したように畝から得た炭化物(ただし陸生のカタツムリなどあいまいなものもある)から畝の利用年代を示した。しかし、これについてもサンプルの質の問題や、畑の畝から得た炭化物でもって利用年代がわかるのか? といった疑問もある。 コラータの調査チームに参加していたボリビア人考古学者のアルバラシン-ホルダンは、ティワナク谷下流域で遺跡登録のためのセトルメント・パターン調査を行い、遺跡の分布状況を解釈するにあたってスペイン人の書き記したアイリュ(地縁・血縁的集団)に関する記録文書を利用した。そして、このアイリュがより複雑に重層化したのがティワナク社会だったと主張する。その上で、これらアイリュなどの手によってスカ・コリュや水利施設などは管理されていたと述べている。 しかし、両者とも決定的な考古学的証拠を挙げることができないため、議論は堂々巡りになっている。二項対立的な論争を昇華しようという動きがあるものの、耕作の管理形態という問題は、考古学的証拠から直接アプローチできないため、最終的な結論には至らないまま収束していった。
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