ティロル伯と神聖ローマ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 08:34 UTC 版)
「ボルツァーノ」の記事における「ティロル伯と神聖ローマ帝国」の解説
1277年、ボルツァーノはティロル伯マインハルト2世によって征服されたが、これはティロル伯とトレント司教との戦いを引き起こした。1363年、ティロル伯爵領はハプスブルク家のものとなり、オーストリアと神聖ローマ帝国の影響下に置かれた。1381年、レオポルト3世はボルツァーノの市民に町議会を置く権利を与えた。こうした措置はその後数十年にわたって、トレント司教によって保持されていた権力と影響力を排除していった。1462年、トレント司教は最終的に、町を統治するすべての権利を放棄した。 14世紀ないし15世紀から、大規模な市場が年4回開催されるようになり、ブレンナー峠を越える商人や職人を出迎えた。1635年、Mercantile Magistrate が、オーストリア大公妃クラウディア・デ・メディチによって設置された。市場シーズン中、2人のイタリアと2人のドイツ人が地元の商人の間で選出され、この magistrate の事務所で働いた。公式な業界団体の設立は、アルプスの文化の交差点としてボルツァーノを強化した。 1806年に神聖ローマ帝国が解体されると、ボルツァーノはナポレオンのイタリア王国の一部となり、アルト・アディジェ県に組み込まれた。ウィーン会議(1814年から1815年)の結果、ボルツァーノはオーストリア帝国(1866年以後はオーストリア=ハンガリー帝国)内のチロル伯領に戻った。ティロル伯領は現代の南チロル、オーストリアのチロル・東チロルをカバーしていた。 1915年、三国協商は、イタリア王国が協商国側に立って第一次世界大戦に加わり、ドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と戦うならば、イタリアに領土を与えることを約束した。イタリアが三国同盟を破棄すれば、協商国はイタリアが求めていたチロルやイストリアなどを与えるという密約は、ロンドン条約によって明文化された。第一次世界大戦中、チロル伯爵領内では戦闘が起こらなかった。しかしドイツとオーストリア・ハンガリーは敗れ、1918年に休戦協定に署名した。南チロルのイタリアへの割譲は1919年に行われた。
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