クラウディア・デ・メディチとは? わかりやすく解説

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クラウディア・デ・メディチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 03:11 UTC 版)

クラウディア・デ・メディチ
Claudia de'Medici
メディチ家
クラウディア・デ・メディチ (ロレンツォ・リッピ作)

出生 (1604-06-04) 1604年6月4日
トスカーナ大公国
フィレンツェ
死去 (1648-12-25) 1648年12月25日(44歳没)
神聖ローマ帝国
チロル伯領
インスブルック
配偶者 フェデリーコ・デッラ・ローヴェレ
  オーストリア大公レオポルト5世
子女
父親 トスカーナ大公フェルディナンド1世
母親 クリスティーヌ・ド・ロレーヌ
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クラウディア・デ・メディチイタリア語: Claudia de'Medici, 1604年6月4日 - 1648年12月25日)は、オーストリア大公レオポルト5世神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の弟)の妃。

生涯

トスカーナ大公フェルディナンド1世と妃クリスティーヌ・ド・ロレーヌの末娘として、フィレンツェで生まれた。名前は祖母のクロード・ド・ヴァロワに因んで名付けられた[注釈 1]

1620年にフェデリーコ・デッラ・ローヴェレ英語版ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア2世の息子)と結婚。唯一の子ヴィットーリアはトスカーナ大公フェルディナンド2世の妻となった。

フェデリーコは1623年6月29日に突然亡くなった。フェデリーコの早世後、1626年4月19日、オーストリア大公レオポルト5世と再婚。この結婚によりオーストリア大公妃となった。

1632年にレオポルトが亡くなると、クラウディアはチロル伯領の統治者であった息子のフェルディナント・カールの摂政に就いた。クラウディアは5人の監督者達とともに、1646年までその役職を務めた。

1648年、クラウディアはインスブルックで死去した。

子女

最初の夫ウルビーノ公子フェデリーコとの間に1子をもうけた。

2人目の夫のオーストリア大公レオポルトとの間に5子をもうけた。

脚注

注釈

  1. ^ クロードのイタリア語形がクラウディア。クロード・ド・ヴァロワはフランス王フランソワ1世の妃クロード・ド・フランスの孫にあたる。

外部リンク

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