ティロール伯の台頭
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1027年、神聖ローマ皇帝コンラート2世は、トレント司教ウダルリコ2世(Udalrico II)に、ボルツァーノを含むヴァッレ・デッラディジェ(アディジェ谷) (Valle dell'Adige) の統治権を与えた。以後この地方(おおむね現在のトレント県、ボルツァーノ県、ベッルーノ県の一部からインスブルックまでの一帯)は皇帝の保証のもと教会領、すなわちトレント大司教領 (it:Principato vescovile di Trento) 、ボルツァーノ=ブレッサノーネ司教領 (it:Diocesi di Bolzano-Bressanone) として統治されることとなった。神聖ローマ皇帝は、伝統的にローマでローマ教皇から戴冠されるものと考えられており、アルプスの安全な通行が求められたのである。実際、両司教はさまざまな圧力にもかかわらず、帝国に対して忠実であった。その後数世紀をかけて両司教の世俗の権力が低下し、代わって新たな勢力がこの地方に台頭することになった。 1140年頃、ヴィンシュガウ(ヴァル・ヴェノスタ (it:Val Venosta) )の侯爵がはじめてティロール伯(Grafen von Tirol)の称号を名乗ったと考えられている。その末裔は、ティロール城に拠点を置き、ティロールを家名とした。 13世紀、ティロール伯の一族は、トレント司教から(おそらくはブレッサノーネ司教からも)代官に任命され、領地支配をゆだねられていたが、やがては司教たちの領主権を侵奪するようになった。ティロール伯 (it:Conti del Tirolo) の地位は、13世紀半ばにティロール家のアルベルト3世から娘婿のゲルツ伯マインハルト1世 (it:Mainardo I di Tirolo-Gorizia) に移り、マインハルト1世はティロール=ゲルツ伯となった(この家系はゲルツ伯家、マインハルト家と呼ばれる)。 マインハルト1世の子のマインハルト2世は、ケルンテンにまで領土を押し広げた。歴史的な「ティロール地方」(現在のトレント県、ボルツァーノ県とオーストリア領のチロル州にまたがる地域)という名称は、この時代に成立した。それまでこの地方は Land im Gebirge あるい Land der Gebirge(「山岳の地」)と総称されていたこの地方は、1248年の文献で dominium comitis Tyrolis、すなわち「ティロール伯の領域」の名で呼ばれることになったのである。ダンテの『神曲』(14世紀初頭成立)にも、ティロール地方は "Tiralli" として言及されており("Suso in Italia bella giace un laco, a piè de l'Alpe che serra Lamagna sovra Tiralli, c'ha nome Benaco"(地獄篇 XX, 61-63))、ドイツとイタリアの間にある広大な領域としてみなされている。
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