ティベスティ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:58 UTC 版)
「チャド・リビア紛争」の記事における「ティベスティ戦争」の解説
2月から3月にかけてのこの敗北は、暫定国民連合政府(GUNT)の崩壊を加速させた。3月にコンゴ人民共和国で開催されたアフリカ統一機構(OAU)主催の新会議にグクーニは出席せず、リビアの手によるものと疑われた。この疑惑は、暫定国民連合政府(GUNT)副代表カモゲの離脱を引き起こし、その後、第一軍(the First Army)、元チャド民族解放戦線(FROLINAT)の各勢力の離脱が漸次続いた。8月には革命民主評議会(CDR)が暫定国民連合政府(GUNT)を離脱し、ファダの町を奪取した。10月になるとグクーニ率いる人民軍(FAP)がファダ奪還を試みるが、リビアの駐留軍が人民軍(FAP)を攻撃、この激戦により暫定国民連合政府(GUNT)は事実上の終焉を迎えることとなった。同月、リビア軍はグクーニを逮捕、人民軍(FAP)はリビアに反攻しティベスティ地方から完全に追い払い、10月24日にはハブレ陣営に移ることとなった。 補給路の再構築、バルダイ、ズアール、Wour(ドイツ語版)奪還のために、リビアは、リビア空軍(英語版)による手厚い航空支援のもと、兵員2000人・T-62戦車からなる機動部隊をティベスティ地方に派遣した。ナパーム弾を使用したこともあり、暫定国民連合政府(GUNT)軍を主要拠点より撤退させるなど、リビア軍の攻撃は成功裏に始まった。しかし、ハブレは暫定国民連合政府(GUNT)軍と連携するためにチャド国軍(FANT)2000人を派遣するといった迅速な反応を示すことになり、この攻撃は最終的にはリビアの期待に反するものになった。また、ミッテランも厳しい反応を示し、パラシュート投下を介しての暫定国民連合政府(GUNT)軍への燃料・食料・弾薬・対戦車ミサイル支援、また軍人に潜入させるといった任務も命じた。フランスはこの軍事活動を通じて、もはや「レッド・ライン以南」を遵守しなければならないとは考えておらず、必要が有ればいつでも行動する用意がある、ということを明らかにした。 軍事的には、ティベスティ地方からリビアを追い出すという試みは一部成功に留まったが(リビアは、北東部での連敗によって地域の維持が出来なくなり、3月にこの地域から完全に撤退した)、この一連の戦闘は、内戦であったものを他国侵略者に対する国家全体としての戦争へと変容させ、国家としての一体感がチャドではかつてないほどの盛り上がりを見せることとなり、チャド国軍(FANT)にとって大きな戦略的突破口となった。
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