ティベリウス、アヘノバルブス、ウィニキウスの遠征
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「ローマ帝国初期のゲルマニア戦役」の記事における「ティベリウス、アヘノバルブス、ウィニキウスの遠征」の解説
大ドルススの死後、ライン川の軍団の指揮権を与えられたティベリウスは、紀元前8年と紀元前7年の2度にわたりゲルマニアに侵攻した。彼の軍はライン川とエルベ川の間をめぐり、シカンブリ族を除けばあまり抵抗を受けなかった。ティベリウスはシカンブリ族をほぼ全滅させ、生き残った者をライン川西岸に送って常に監視できるようにした。同時代の歴史家ウェレイウス・パテルクスが、ゲルマニアは本質的には力で制圧されたと述べる 一方で、6世紀のカッシオドルスは、エルベ川とライン川の間のすべてのゲルマン人がローマに服従していたと主張している。実際のゲルマニアの戦況は、帝国の喧伝したところとは大きく異なっていた。 紀元前6年、アウグストゥスはルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスをゲルマニア方面の司令官に任じた。アヘノバルブスは紀元前3年にエルベ川を越えるところまで侵攻し、ライン川とエルベ川の間の沼沢地にポンテス・ロンギ(pntes longi)と呼ばれる道を整備した。翌年、ローマとケルスキ族の間で戦争が勃発した。ケルスキ族の上層部はローマと強いつながりを持とうとしていたが、部族全体としては20年にわたりローマに抵抗し続けた。エルベ川まで直結するインフラまで整備したアヘノバルブスであったが、ケルスキ族の抵抗勢力にうまく対処できなかった。紀元前2年、アウグストゥスはアヘノバルブスをローマへ呼び戻し、後任として軍人経験豊富なマルクス・ウィニキウスが任命された。 紀元前2年から紀元後4年まで、ウィニキウスは5個軍団をゲルマに置いて指揮を執った。彼がゲルマニアに赴任したころ、多くのゲルマン部族が反旗を翻しており、ウェレイウス・パテルクスが「大規模な戦争」と呼ぶほどの状況になっていた。ところが、この後この戦争に言及している文献はない。ローマに帰ったウェレイスが凱旋式を行っていることからも、彼が反乱鎮圧で見事な手腕を振るったことが推測できる。 紀元後4年、アウグストゥスは再びティベリウスをゲルマニアに派遣した。ティベリウスはまずカナネファテス族、アットゥアリイ族、ブルクテリ族を征服し、ケルスキ族を服属させた。その後すぐに、彼はケルスキ族が「ローマ人の友」であると宣言した。5年、ティベリウスはカウキー族を攻撃し、川と陸の両面からゲルマニアの奥地まで突き進んだ。ローマ艦隊と軍団はエルベ川で合流に成功したが、ティベリウスは征服地に占領部隊を残すことなく夏の終わりに西方へ撤退した。彼の軍はライン川へ戻る途中でゲルマン人の襲撃を受けたが、撃退した。 ティベリウスの遠征の後、ケルスキ族の上層部はローマの特別な友人となった。この友好関係は、ケルスキ族の族長一族が立役者となった。その中には、族長の息子で当時22歳前後だったアルミニウスもいたが、彼は後にローマ帝国への一大対抗勢力を率いることになる。ティベリウスは族長一族にケルスキ族の統治を任せるとともに、ケルスキ族にゲルマン人の中での自由な地位を与えた。その代わり、彼はケルスキ族を監視するためリッペに冬営地を建設した。 6年の時点で、ローマ側の見解では、ゲルマン人諸部族は未征服のものでもおおむね平和的になったと考えられていた。唯一大きな抵抗勢力として残っていたのが、マルボドゥウス率いるマルコマンニ族だった。ローマ帝国はゲルマニア、イリュリクム、ラエティアから12個軍団を結集して大攻勢をかけようとしたが、イリュリクムでバトの反乱が起きたため、ローマ帝国はマルボドゥウスをマルコマンニ王と認めることで和解した。 ローマ帝国の戦略の一つとして、厄介な部族を目の届く土地に移住させ、単に同盟を組む以上に強い統制下におく、というものがあった。前述のように、ティベリウスは大ドルススを苦しめたシカンブリ族をライン川西岸に移し、ローマ軍の手元で監視できるようにした。
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