ダイナマイト娘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 14:14 UTC 版)
1961年に東芝音楽工業から、草野浩二担当のもと、「和製ブレンダ・リー」のキャッチフレーズをうたい「子供ぢゃないの」(ヘレン・シャピロのカバー)でデビュー(草野の兄である漣健児訳詞)。当時14歳。翌1962年には各社競作で出された「ヴァケイション」(コニー・フランシスのカバー)が20万枚のヒットを記録する。他に青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子らも同曲をカバーした。青山版は3万枚の小ヒットだった。同年NHK紅白歌合戦に初出場。1973年の森昌子に破られるまで紅組最年少出場記録保持者であった。1964年1月に11年ぶり2度目の来日を果たしていたエラ・フィッツジェラルドの楽屋を訪ねた際、エラから直々に「養女にしたい」とまで言われている。 1964年10月に日本コロムビアへ移籍。新幹線で移動中、グレンミラー楽団を引き連れ来日していた当時のニューポート・ジャズ・フェスティバルを主催していたジョージ・ウエインと出会い、「小さな日本のジャズシンガー」と紹介された弘田に興味を持ったウエインは、後日東京のスタジオを借り、自らの伴奏で何曲か歌唱・録音させた。その結果、1965年7月に、東洋人歌手として初めてアメリカ合衆国の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に招待され、ビリー・テイラー・トリオのゲスト・ヴォーカリストとして出演した。3日目の夜、降雨による中断の後、ビリー・テイラー・トリオにトニー・スコットが加わったカルテットをバックに「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス (Just One of Those Things)」、「ミスティ (Misty)」、「ムーン・リバー (Moon River)」、「マック・ザ・ナイフ (Mack the Knife)」と、「三階節」のジャズ編曲版を歌い、トリを務めた。その足でニューヨークに渡り、譜面の中から、ボビー・ヘブに先んじた「サニー(Sunny)」等のオリジナルジャズを、自ら選んで録音し、ビリー・テイラー・トリオ演奏のもと(トニー・スコットはプロデューサーに徹した)アルバム「ニューヨークのミコ」を制作した。 2か月ほど渡米・渡欧。その成果として1968年5月30日にはリズム・アンド・ブルースのコンサートをサンケイホールにて開き、ライブアルバムを制作し、日本におけるリズム・アンド・ブルースの先駆けとなった。
※この「ダイナマイト娘」の解説は、「弘田三枝子」の解説の一部です。
「ダイナマイト娘」を含む「弘田三枝子」の記事については、「弘田三枝子」の概要を参照ください。
- ダイナマイト娘のページへのリンク