タラカンの戦い・メナドの戦い
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「蘭印作戦」の記事における「タラカンの戦い・メナドの戦い」の解説
ダバオの戦いに先立つ12月19日、南方軍はジャワ島上陸の日程を開戦時の計画から1か月繰り上げる方針を固めていた。これは、マレー沖海戦でイギリス軍の2隻の戦艦が撃沈され、地上部隊も快進撃を続けるなど、主にマレー方面において戦況が極めて有利に進展していたためである。 両支隊は1941年12月20日にダバオに上陸した。三浦支隊が先行して上陸したが、海軍機の誤爆を受けて約50名の戦死者を出したため、坂口支隊主力の追加投入を余儀なくされた。両支隊は同日中に在留日本人を救出して飛行場を占領し、25日には坂口支隊の一部をもってホロ島を攻略した。坂口支隊の損害は両作戦を合わせて戦死22名であった。 1942年1月11日、オランダ領タラカンとメナドへの進攻をもって蘭印作戦が開始された。1月11日未明、坂口支隊と呉第2特別陸戦隊(呉二特)はボルネオ島北部の油田地帯タラカン島に上陸した。タラカンは蘭印軍1,400名が守備していたが13日に降伏した。しかし沿岸砲による砲撃で日本軍の掃海艇2隻が撃沈され、海軍は戦死156名を出した。坂口支隊の戦死は7名にとどまった。 同じく11日、海軍単独によるセレベス島メナドへの進攻が行われた。(メナドの戦い(英語版))佐世保連合特別陸戦隊(佐連特)直率部隊及び佐世保第1特別陸戦隊(佐一特)(兵力は合計で1,800名)がメナドの西岸に、佐世保第2特別陸戦隊(佐二特)(兵力1,400名)が東岸に上陸し、海軍空挺部隊の横須賀第1特別陸戦隊(横一特、司令官:堀内豊秋中佐)の落下傘兵334名がランゴアン飛行場へ空挺降下した。これは日本軍としては史上最初の空挺作戦であったが、陸軍に配慮して報道発表は留め置かれた。日本軍の損害はほとんどなかった。 翌12日、日本政府は「日蘭間に戦争状態が存在するに至った」旨の声明を発した。ミンダナオ島南部のダバオは蘭印作戦の前進基地となりうる地勢を有していた。また、主にマニラアサの栽培に関係する在留日本人約2万人が居住し、早期にこれを保護する必要があった。 日本の進攻は当初、大日本帝国軍旗を振って「日本は私たちの兄」「万歳大日本」などの支持を叫ぶインドネシア人から熱意をもって歓迎された。プラムディヤ・アナンタ・トゥールは、「日本軍の到着と共にほぼ全員が希望に満ち溢れていた、例外はオランダ人のために働いていた者だけだった」と述べている。また、インドネシアには「インドネシア民族は長い間、異民族に支配されるが、やがて北の方から黄色い肌の民族がやってきて、白人を追い払い、しばらくの間統治するが、トウモロコシの実るころまでに去り、その後には独立が訪れる」という「ジョヨボヨ(英語版)」という伝説があり、この伝説も日本への期待感を助長したとみられる。
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