ソクラテスによる問題提起1(「知恵」の平等)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 14:09 UTC 版)
「テアイテトス (対話篇)」の記事における「ソクラテスによる問題提起1(「知恵」の平等)」の解説
するとソクラテスは、ようやくお産を済ませたのはいいが、続いては産後の儀式である「アンピドロミア」(生後五日(もしくは七日・十日)の新生児を産婆たちが抱き、家の竃(かまど)の周りを回る儀式)のように、言論の周囲を走り回り、この生まれて来た「新生児」が養育に値しない「妄想虚偽」のものではないのか、しっかりと吟味してみないといけないと指摘し、果たしてテアイテトスはそれに耐えられるのか、それとも「初産の母親」のように自分の産んだ子の養育に固執し吟味に腹を立てるのか、どちらだろうかと問う。 そこでテオドロスが横から口を挟み、テアイテトスは「気むずかし屋」ではないので我慢できると指摘しつつ、果たしてこれまでの議論がひっくり返されるようなことがあるのか聞かせてほしいとソクラテスに頼む。 ソクラテスは、テオドロスは自分を、どんな言論も造作もなく取り出せる「言論が詰まっている袋」かなんかのように勘違いしているが、(これまでの「産婆」の喩えにも表わされているように)どんな言論も自分から出て来るものではなく、問答の相手から出て来るのであり、自分が知識していることといえば、「他人の口から言論を出させて、それを度に合った仕方で受け入れる(吟味・検証する)」ことといったごくわずかなことであることを断りつつ、先の議論にも出てきた、テオドロスの友人でもあるプロタゴラスに関して、解せないと思っていることがあると述べる。 ソクラテスは、プロタゴラスがその主張の通り、「全ての「感覚者」を相対的に同列に扱う」のであれば、その論旨を明確・強烈・効果的に読者に届けるために、その論文の中で「豚」「ヒヒ」「おたまじゃくし」といった「下等な感覚者」も一緒に挙げればよかったのに、なぜそれをしなかったのか、また、どうしてプロタゴラスのみは「知者」であり、他者の「師」として「尊敬」され、「多額の謝礼金」を貰うに値する者ということになるのか、そして反対にどうして他の者たちは(等しく「知者」であるはずなのに)プロタゴラスに教えを受けねばならないのかと、皮肉を言う。さらにソクラテスは、ひょっとしたらプロタゴラスはそうした主張を本気で言っているのではなく、聴衆を喜ばせるための冗談として言っていたのだろうか、また、プロタゴラスの主張の通りであれば、「言論を交えた問答」という営み全体が「無用の長談義」「途方もない空談」ということになってしまうのではないかと問う。 テオドロスは、プロタゴラスは自分の友人なので、自分の同意によって彼が論破されるのは忍びないし、逆に彼を守るためにソクラテスと張り合うこともできないので、再びテアイテトスを相手に問答してほしいと述べる。ソクラテスは、(参加者のみ入場が許される)「ラケダイモン(スパルタ)の相撲場」に行っても、それを見物しながら、自分は着物を脱いで裸体を晒すこともなくていいと考えるのかと、問答への参加を促すが、テオドロスは自分は老体であると固辞をする。 ソクラテスは仕方なく、再びテアイテトスと問答を始める。 まずソクラテスはテアイテトスに、先の指摘のように、突然自分が「どんな人間や神々にすら知恵が劣らない者」だということになったら、奇異な思いはしないかと問う。テアイテトスは同意する。 するとソクラテスは、今度は反対にプロタゴラスの代弁者を装い、「神々については知りえないし語り得ない」というのがプロタゴラスの信条であり、また「全ての人間と家畜などが知恵において差異が無い」ということは「あり得ない」と反発するのは、単に俗情混じりの「もっともらしさ」に立脚しているだけであって、明確な証明の下に行われているわけではないと指摘しつつ、「別の道」によってこれを考察・論証していかねばならないと主張する。テアイテトスも同意する。
※この「ソクラテスによる問題提起1(「知恵」の平等)」の解説は、「テアイテトス (対話篇)」の解説の一部です。
「ソクラテスによる問題提起1(「知恵」の平等)」を含む「テアイテトス (対話篇)」の記事については、「テアイテトス (対話篇)」の概要を参照ください。
- ソクラテスによる問題提起1のページへのリンク