ソクラテスによる問題提起2(「思いなし」の「真偽」)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 14:09 UTC 版)
「テアイテトス (対話篇)」の記事における「ソクラテスによる問題提起2(「思いなし」の「真偽」)」の解説
ソクラテスは、プロタゴラスの「各自に思われていることは、その当人にとって、そうありもする」という表現の曖昧さに漬け込み、これまでの「感覚」の話から、「思いなし」へと切り口を変えて(ズラして)話を始める。 ソクラテスはまず、我々は一般的に自分と他者に「知恵」の差・優劣があると考えているし、特に難戦・難病・難航など危機的な状況においては、それを救ってくれる「知恵」を持っている者を求めたり崇めたりするのであり、ここで言う「知恵」とは「真なる思いなし」であり、反対の「無知」とは「偽なる思いなし」であること、すなわち我々は一般的に、「思いなし」には「真偽」があることを認めていることを指摘する。テオドロスも同意する。 (ソクラテスは、それではこうした人間の「思いなし」の「真偽」に関しては、どう取り扱ったらいいのか改めて問う。そして、人間の「思いなし」をプロタゴラス説のように「常に真」と考えても、あるいは「真も偽もある」と考えても、どのみち帰結としては後者の「真も偽もある」に行き着くように思えると指摘する。 ソクラテスはまず第1に、(プロタゴラス説に立脚している)ある者(A)が、ある「思いなし」をして、それがその当人にとっては「真」であったとしても、当然それとは異なる/反対の「思いなし」をする者たちも大勢いるのであり、その者たちにとっては、そのある者(A)の「思いなし」は「偽」ということになり、多数決による「確からしさ」で言えば、「偽」多数でむしろ「偽」に近いものとされてしまうこと、そしてこの原理はプロタゴラス自身の説(「思いなし」)にすら適用されることになるし、プロタゴラス説もまた(自説によって自滅的に)「偽」に近いものとなってしまうと指摘する。テオドロスも同意する。 また第2に、ある者(A)の「思いなし」のことを、異なる/反対の「思いなし」をしている人々が「「偽」と考えている」ことに対して、(プロタゴラス説に立脚している)ある者(A)は、それを「真」と認めなくてはならなくなる、すなわち「自分の「思いなし」は「偽」である」ということを承認せざるを得なくなるのであり、この原理もまたプロタゴラス自身の説(「思いなし」)にすら適用されることになるし、プロタゴラス自身も「自説は「偽」である」ということを承認せざるを得なくなると指摘する。テオドロスも同意する。 ソクラテスが、それではプロタゴラス説は、他者にとっても本人にとっても「偽」ということになると結論付けると、テオドロスはそれは自分の仲間だった者に対して言い過ぎである(追窮が過ぎる)と同意を拒否する。) ソクラテスは、プロタゴラスが舞台の亡霊役のように地下から首を出してくるとしたら、我々をさんざん論駁して去っていくだろうが、実際のところ我々しかおらず仕方がないのだから、とりあえずはその前の議論である、「人間には、「知恵がある」ことと、「無知である」ことの差・区別がある」ということだけは同意しておこうと提案し、テオドロスも同意する。 さらにソクラテスは、この問題については、先の(ソクラテスがプロタゴラスを演じて反論を行ったくだりの)議論で出てきたような話題、すなわち「医療」や「(国家の為になる)法の制定」などに関しては、「良悪(善悪)」を見極めて導くことができる「他者より優越した一者」の存在が認められる(他方で、「感覚」や、何が「正・不正」「敬神・不敬」であるかは、「各個人・各国家それぞれで異なる」とされる)こと、この点を掘り下げていくとうまくいくのではないかと指摘しつつも、他方でこのままではどんどん議論が大きくなっていってしまうのではないかと危惧も表明する。テオドロスは、自分たちは「時間に余裕のある身の上」なので、その点は問題無いと応じる。 するとそこから、ソクラテスによる「知恵の探求者」(求知者、愛知者)についての脱線した話が始まる。
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